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母のアルバム、最後の謎解きゲーム2014年08月02日

数年前に亡くなった母の遺品を整理していた姉から、
二冊のアルバムが送られてきました。
母の遺品アルバム二冊
朱色のアルバムと、杉綾模様のアルバムです。

中を見ると、ほとんどのページで写真が剥がされた跡がありました。
写真が全く残っていないページもあります。
剝がされた写真
一方、バラの写真が数十枚、袋に入っていました。

昔のアルバムには良くある状態です。
・誰かに見せるために剥がして持ち出す。
・アルバムの構成を変えるために剥がす。
などの理由で一旦剝がされた後、そのままになってしまったのでしょうか。
これを出来るだけ元の姿に戻したいものです。

アルバムの書込み等から判断して、写真の主な年代は昭和初期、
1930年代頃のようです。
今から約80年前です。
ということは、写っている人物の大多数は既に「あちら側の世界」の住人です。
親類を訪ね歩いても、
「この写真はあなたですか?」とか「この写真はいつ、
何の時に撮られたのですか?」
との質問に答えてくれる人はいません。

やむを得ず、書込みのある所から自力で復元を試みました。
例えば、こんな具合です。
上の写真の朱色のアルバムの右下部分を次のように拡大してみました。
謎解きの鍵
黒の台紙に、写真を貼付けた糊の跡だけが残っています。
そして、「どこのどなた!」の添え書きがあります。
こう推論しました。
「どこのどなた!、は人物不詳という意味ではなく、
多分、普段以上のおめかしをした母、もしくは親しい女性のことで、
それを、少しふざけて『どなた』と表現したのではないだろうか」
とすれば、ちょっと気取ったポーズの女性の写真がここにあったはずです。
また、アルバムの他のページで、
母の友人や知人と思われる女性の写真の添え書きには、
「京子様」とか「淑ちゃん」とか「千江子様」など
実名が書かれている例が多いので、
この「どなた」は母自身を指している可能性も高いです。

そして、それらしい写真を何とか探し出し、
写真の裏側と台紙を並べて比較すると次の写真のようになりました。
該当写真発見
糊の跡が完全に対称形になっています。成功!!
表側は次のような写真です。
元の場所に戻った写真
「1932年 木曽ニテ」とメモ書きされていました。
日傘をさして木曽の渓谷(多分、『寝覚ノ床』)に佇む女性、
もし母であれば、この時18歳、丁度女学校を卒業した年です。
今でいう卒業旅行かな。
正解は、私が「こちら側の世界」にいる限り分かりません。

さて、このアルバムの写真復元って、
ジグソーパズルか昔の貝合わせに似ていると思いました。
いずれも、ある特定の条件に合う「ピース」を探し出すゲームですよね。
麻雀をたしなみ、百人一首が大好きだった母ですから、
ひょっとしたらこのアルバムは、母が私に課した最後のゲームかも知れません。

実は、このゲーム好きの性格は見事に子孫に受け継がれています。
幼くして百人一首を覚えた私の娘は、
小学生の時の競技で上級生の男子を負かして泣かせてしまいました。
もう一人の娘は、子供の頃、
自分がやりかけのジグソーパズルを私が夜中に完成させてしまった事に、
翌朝泣いて抗議しました。(怒って当然!)
私もジグソーパズルは好きで得意なので、
やりかけのパズルを放っておく訳にはいかなかったのです。

そしてゲーム好きの性格は、母の「ひ孫」まで。
私の孫娘は二歳そこそこで、
三十ピースものジグソーパズルを脇目も振らず仕上げてしまいました。
ジグソーパズルの孫娘
血はあらそえないです。

そして、私の興味はもうひとつ。
先ほどの木曽の写真はどんなカメラで撮影されたのか、です。
当時はライカ判のカメラはドイツで開発されたばかり、
一般への普及はまだまだの時代です。
ちょっと調べると、当時の日本ではスプリング式のカメラ、即ち
蓋を開けると蛇腹が伸びてレンズがせり出してくるタイプが
出回っていたようです。
(それでも一部のマニアが使っていただけでしょうが)
私も、そんなカメラに白黒のロールフィルムを詰めて『寝覚ノ床』へ行き、
日傘をさして眩しそうに佇む貴婦人を写してみたくなりました。
まずは、そんな蛇腹式の中古カメラを、どこかで買ってしまいそうです。

続く

100年前の祖母に会う2014年08月03日

前回)からの続きです。

どんなに血の繋がりが濃くても、
会ったことのない人には「情」を感じることはありません。
私にとって、母方の祖母と、叔父(母の弟)がそういう人でした。

祖母は、そもそも母が子供の頃に亡くなっているのですから、
私が知る由もありません。
でも、母の死をきっかけに、
祖母の顔を知ることになるのですから不思議なものです。
次の写真は、母の遺品の写真の束から見つけたものです。
アルバムから剥がれ、バラバラになって保管されていた中の一枚です。
90年前の家族写真
そして、この写真が元々貼ってあったアルバムの場所を探しました。
剥がれた紙の痕跡や糊の形状から判断して、
この写真が戻るべき所は、次の場所であることが分かりました。
写真の台紙
脇のコメントには「お母様を入れた最後の家族写真になろうとは---」
と書いてあるので、「そうか、この人が私の祖母なのか」と始めて知ったのです。
1920年代後半の撮影と思われます。
この写真には四人兄弟が写っています。
私の母と、母から見て二人の兄と一人の弟です。

その十年くらい前、
多分1910年代後半に撮影された次の写真にも兄妹が写っていました。
幼少の母
まだ、弟は生まれていませんね。
そして、ざっと調べた限りこの弟さんの写真は、
一枚目の写真以外には残っていません。

この私にとっての叔父さんは、
私の生まれるずっと前にガダルカナル島で戦死したそうです。
日米が過酷な戦いを繰り広げた1942年のことと思われます。
つまり「こちら側の世界の」本人には会いようがありませんでした。
今回、一枚目の写真を見つけて、始めてお会いしたのです。
これからは「叔父さん」の言葉で、
この「坊や」の顔を思い浮かべることになります。

撮影時の年齢はマチマチですが、顔を思い浮かべられるようになって、
祖母と叔父さんへの情が少し生まれました。

それにしても、三枚目の写真に写っている女の子の何と可愛いこと!
これが私の母だったなんて。
コメントに「こんな時もあったのか」と母自身が書いています。
そして写真撮影から約100年経った今年、
私の感想も「こんな時もあったのか」です。
一枚の写真が残っているって、偉大なことですね。

「花ちゃんと蓮さま」だった頃の母2014年08月06日

母が自分の学歴に付いて私に語ったのは、
「宇女高(ウジョコウ)」の第一回卒業生ということだけでした。
この高校は、栃木県宇都宮市にある女子校で、正門の少し内側に「操橋(ミサオバシ)」という石造りの橋があり、女生徒たちが登下校時に必ずこの橋を渡ることで知られています。
貞節の証なんでしょうね。
宇女高の歴史を紐解くと、設立は明治期ながら、
1931年4月1日に「栃木県宇都宮第一高等女学校」に改称されたとありますので、
母が18歳の翌1932年3月末に卒業したとすれば確かに第一回の卒業生です。

ところが先日見つけた母のアルバムに次のような写真がありました。
セーラー服の二人
卒業時の記念写真でしょうか、右側のセーラー服が母です。
問題は、写真の右下に型押し文字で
”PHOTO STUDIO / G.KIKUCHI / SANJO HOKUETSU”
とあることです。

北越の三条町(今の三条市)にあるキクチ写真館で撮影したようです。
このような記念写真は、普通は地元の写真館で撮るはずです。
まさか栃木県から新潟県まで出かけないでしょう。

疑問を抱えながら母の残した写真の束を調べたら、
同じセーラー服がたくさん見つかりました。
セーラー服がたくさん
じっくり彼女たちをながめていると、閃くものがありました。
彼女たちのセーラー服の襟とネクタイに、
三本(条)の線がアクセントとして配されています。
これは三条町にあった女子校の制服に間違いなさそうです。

また、三条市の歴史について調べると、
母の出生地である「新潟県南蒲原群本成寺村大字新保」は、
1925年に三条町に編入されたとあります。
そして、母が十代の頃には「新潟県立三条高等女学校」という学校があったそうです。
今の「新潟県立三条東高等学校」です。
これらの状況証拠から判断すると、母は生まれ故郷の三条町と、
後に転居した宇都宮市の二つの女学校に通ったと言えそうです。

次に、ジグソーパズルの要領で、
彼女たちの写真が納まるべきアルバムのページを探しました。
糊が剥がれた跡を照合する作業です。
すると数枚が次の写真のように、「あの人この人」と題されたページに納まりました。
三条高等女学校の友人たち
右上から順番に「栄子様、町子様、きみえ様、栄子様(1枚目と同女性)」
と添書きがあります。
きみえ様は最初の写真で母の隣に写っている女性のようです。
左下の写真の裏側には「昭和五年四月二十二日 / Suzuki Eiko / 鈴木栄子」
と撮影日と彼女のフルネームが書かれていました。
多分この昭和五年(1930年)四月に、
仲の良い卒業生同士が記念写真の交換をしたのでしょう。

更に、特別な一人がいました。
セーラー服の女性のうち、卵顔の眼の大きな方がいて、
その方の写真が元々貼ってあったページを探したところ、
「京子様のいろいろ」として一ページが割り当てられていました。
三条高等女学校の京子様
きっとこの京子様は、母に取って「蓮子様」のような「腹心の友」だったのでしょうね。

このセーラー服の少女たち、ご存命であれば丁度百歳になったところです。
是非この写真を見ていただいて、女学校時代の思い出など聞いてみたいですね。

さて、この件についてほぼ満足のいく結論に達したところで、
母の通った学校の履歴を、私が母に代わって作成してみました。

1926年(母12歳):新潟県南蒲原郡?尋常小学校卒業
1928年(母14歳):新潟県南蒲原郡?高等小学校卒業
1930年(母16歳):新潟県立三条高等女学校卒業
1932年(母18歳):栃木県立宇都宮第一高等女学校卒業

何かにつけ鷹揚な母でしたから、
天国に入るにあたって、履歴書を忘れて行ったのではないかと心配します。
それとも、天国では、そんなものは必要ないのかな。

母が軍国少女だった頃(1)2014年08月08日


上海事変へ宇都宮から
これは、昭和7年2月29日に栃木県の宇都宮駅で撮影した写真です。
左側が母の長兄で、宇都宮の連隊に配属となっていた軍人さんです。
サーベルを下げて、見るからに立派な軍人さんでしょう?

母は、早くに父親を亡くし、十代半ばの頃、母親も亡くなってしまいました。
そのため、女学校時代の母は、経済的にも精神的にも長兄を頼りにしていました。
母の遺したアルバムの中で、最も数多く登場するのがこの「兄さん」です。

上の写真の添書きには、日付と場所に続いて
「上海出動 宇都宮を去らんとする記念に。兄さんと塚本さん」とあります。
この年の始めに上海で勃発した戦闘が拡大したため(いわゆる第1次上海事変)、
宇都宮の連隊からも兵を派遣することとなったようです。

時期的に同じ頃と思われる写真が数枚ありました。
戦中閑あり
これには「週番のひととき、兄と浅河さん」と書いてあります。
このように碁を打って寛いでいる横顔も素敵な兄さんです。

また、鬼怒川で馬に乗っている写真もありました。
鬼怒川を馬で
この写真では、母はふざけて
「馬に跨がる印度人はうちの兄さん」とコメントしていますが、
当時のフィルムの性状から顔が黒く写っているのを、そう表現しただけで、
本当は「こんな大きな川も馬で渡ってしまうなんて、さすが兄さん」
と感心していたのでしょう。
(インドの方、不適切な表現ごめんなさい)

実際、この兄さんは軍人としての地位が高かっただけでなく、
ハンサムで背も高く、馬に跨がって連隊へ向かう時など、
若い娘の評判になったそうです。

続く

母が軍国少女だった頃(2)2014年08月09日

前回)からの続きです。

昭和7年(1932年)に上海に出動した伯父(母の長兄)は、
その後、中国にとどまって満州事変に関わったのでしょう。
この戦争が日本の大勝利に終り、
中国との停戦協定が結ばれた翌年の昭和9年(1934年)、
伯父は二年ぶりに宇都宮へ戻って来ました。

その時の写真が十枚ほど母のアルバムに残っており、
そのうちの一枚は、花模様の飾り枠に伯父の半身を納めた、
まるで、俳優のブロマイドのような仕立てでした。
凱旋した兄の英姿
このページのタイトルは、下の写真に見るように、
「昭和九年四月十九日。凱旋の日の兄の英姿」でした。
その筆勢からも、軍人の兄を誇りとした母の思いが伝わってきます。
題字

当時の栃木県知事へ凱旋報告をしている写真もありました。
知事に凱旋挨拶
撮影場所は、何となく駅っぽいですね。
きっと知事たちが宇都宮駅まで出向き、凱旋兵士を迎えたのでしょう。
ちなみにウィキペディアによれば、この時の知事(多分写真中央)は
半井清(なからい きよし)という内務官僚です。
この頃の知事は選挙で選ばれるのではなく、中央から任命されていたのですね。

そして駅前に整列した兵隊さん。
白木屋ホテル前で立て銃
右端の人物から、中国との戦における奮闘を讃えられているものと思います。
立て銃(たてつつ)で整列した兵隊さんが勇ましいです。
その兵隊さんたちの少し手前で毅然としている隊長?さんは、
姿形から判断して、どうも伯父のようです。
また、この写真の背景には「白木屋ホテル」が写っています。
当時の宇都宮駅前の風景を知る貴重な写真かも知れません。
このホテルは、日本で始めて「駅弁」を販売したことで有名です。

この後、担え銃(になえつつ)で市内行進を行いました。
担え銃で市内行進
部隊の後方に白木屋ホテルらしき建物が写っています。
その右手、道路の延長線上にある白い建物は多分駅舎でしょう。
ということは、部隊は「大通り」を駅の西側の市の中心部へ向かって進んでいるようです。
写真右手の沿道で日の丸の小旗を振るセーラー服の女学生たちは、
母の母校「宇女校」の後輩たちでしょうね。

そして貴重な写真をもう一枚。
宇都宮といえば、市のヘソともいえる中心部に「二荒山神社」がありますね。
市内で最も絵になる場所です。
部隊は、当然その神社にも参拝し、戦勝の報告をしています。
二荒山神社に戦勝報告
この立派な石段は、今でも残っていますが、
両サイドの商店の姿は、この後、何度も変貌しました。

この二荒山神社への戦勝報告から二十年以上経った秋の吉日、
私の母は自分の息子を連れて、同じ神社へ七五三のお参りに行きました。
その時の写真もアルバムの中に埋もれていました。
二荒山神社での七五三と千歳飴
同じ神社での写真とはいえ、この子供が手にしているのは、
銃や剣ではなく「千歳飴の袋」です。
この頃の日本は、第二次大戦の傷跡も癒え、
むしろ、お隣の朝鮮戦争の特需景気により、
戦後の復興が加速されているところでした。

続く