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「花ちゃんと蓮さま」だった頃の母2014年08月06日

母が自分の学歴に付いて私に語ったのは、
「宇女高(ウジョコウ)」の第一回卒業生ということだけでした。
この高校は、栃木県宇都宮市にある女子校で、正門の少し内側に「操橋(ミサオバシ)」という石造りの橋があり、女生徒たちが登下校時に必ずこの橋を渡ることで知られています。
貞節の証なんでしょうね。
宇女高の歴史を紐解くと、設立は明治期ながら、
1931年4月1日に「栃木県宇都宮第一高等女学校」に改称されたとありますので、
母が18歳の翌1932年3月末に卒業したとすれば確かに第一回の卒業生です。

ところが先日見つけた母のアルバムに次のような写真がありました。
セーラー服の二人
卒業時の記念写真でしょうか、右側のセーラー服が母です。
問題は、写真の右下に型押し文字で
”PHOTO STUDIO / G.KIKUCHI / SANJO HOKUETSU”
とあることです。

北越の三条町(今の三条市)にあるキクチ写真館で撮影したようです。
このような記念写真は、普通は地元の写真館で撮るはずです。
まさか栃木県から新潟県まで出かけないでしょう。

疑問を抱えながら母の残した写真の束を調べたら、
同じセーラー服がたくさん見つかりました。
セーラー服がたくさん
じっくり彼女たちをながめていると、閃くものがありました。
彼女たちのセーラー服の襟とネクタイに、
三本(条)の線がアクセントとして配されています。
これは三条町にあった女子校の制服に間違いなさそうです。

また、三条市の歴史について調べると、
母の出生地である「新潟県南蒲原群本成寺村大字新保」は、
1925年に三条町に編入されたとあります。
そして、母が十代の頃には「新潟県立三条高等女学校」という学校があったそうです。
今の「新潟県立三条東高等学校」です。
これらの状況証拠から判断すると、母は生まれ故郷の三条町と、
後に転居した宇都宮市の二つの女学校に通ったと言えそうです。

次に、ジグソーパズルの要領で、
彼女たちの写真が納まるべきアルバムのページを探しました。
糊が剥がれた跡を照合する作業です。
すると数枚が次の写真のように、「あの人この人」と題されたページに納まりました。
三条高等女学校の友人たち
右上から順番に「栄子様、町子様、きみえ様、栄子様(1枚目と同女性)」
と添書きがあります。
きみえ様は最初の写真で母の隣に写っている女性のようです。
左下の写真の裏側には「昭和五年四月二十二日 / Suzuki Eiko / 鈴木栄子」
と撮影日と彼女のフルネームが書かれていました。
多分この昭和五年(1930年)四月に、
仲の良い卒業生同士が記念写真の交換をしたのでしょう。

更に、特別な一人がいました。
セーラー服の女性のうち、卵顔の眼の大きな方がいて、
その方の写真が元々貼ってあったページを探したところ、
「京子様のいろいろ」として一ページが割り当てられていました。
三条高等女学校の京子様
きっとこの京子様は、母に取って「蓮子様」のような「腹心の友」だったのでしょうね。

このセーラー服の少女たち、ご存命であれば丁度百歳になったところです。
是非この写真を見ていただいて、女学校時代の思い出など聞いてみたいですね。

さて、この件についてほぼ満足のいく結論に達したところで、
母の通った学校の履歴を、私が母に代わって作成してみました。

1926年(母12歳):新潟県南蒲原郡?尋常小学校卒業
1928年(母14歳):新潟県南蒲原郡?高等小学校卒業
1930年(母16歳):新潟県立三条高等女学校卒業
1932年(母18歳):栃木県立宇都宮第一高等女学校卒業

何かにつけ鷹揚な母でしたから、
天国に入るにあたって、履歴書を忘れて行ったのではないかと心配します。
それとも、天国では、そんなものは必要ないのかな。