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母のベルエポック2014年08月11日

前回)からの続きです。

結婚前の母は、大阪でOLをしていたことがあったそうです。
随分昔にそんな話をチラッと聞いた記憶はあるものの、その詳細は知らないままでした。
普通の男の子は「母親の青春時代」などには興味を持たないものです。

今回、母のアルバムの復元をする過程で、いくつか分かったことがありました。
前々回の記事で、母の兄さんが満州から凱旋して来た日の写真を取り上げました。
その日付は、昭和9年4月19日でした。
その直前に撮影された次の写真がありました。
中央で眼を閉じているのが母です。
母が大阪を発つ日
こう添書きされています。
「昭和九.四.七.大阪発つ日 門口にて。
 兄さんが帰るのはうれしいけれど
 二とせあまり住みなれた
 大阪を、別れる日は悲しかった。」

親代わりの長兄が戦地の中国に赴くため、
母は大阪の親類(多分)に預けられたのでしょう。
そして二年後、長兄が帰還することになったので、
また宇都宮へ呼び戻されたと考えられます。

この二年間が、肉親と別れて暮らすつらく寂しい日々かと思えば、
実は、その逆で、すっかりはじけてしまった日々のようです。
このOL時代と判別される写真には、
職場の同僚と思われる仲間たちと、
大阪周辺の行楽に羽根を伸ばす母の姿が溢れていました。
その姿を見てみましょう。

■宝塚大山へ松茸狩り(前列左から二人目)
宝塚大山で松茸狩り
「自分でとった松茸ですき焼をして、東京音頭をおそはって
 唄って踊って疲れたころ、ブラブラ帰る田舎道!
 稲が黄色にみのっていた。」
って、添書きもまるで流行歌の歌詞のようですね。
しかも、松茸のぎっしり詰まった竹籠を、二つ持っているのは母だけ!

■昭和八年夏 高野詣で。
高野詣で1
大きめの帽子にお下げ髪の娘が母。なかなか可愛い十九歳。
高野詣で2

■昭和八年夏 耶馬渓にて。
(大分県中津市にある有名な耶馬渓ではなく、大阪府の摂津峡と思われます)
この時もお下げ髪の母です。
耶馬渓にて1

耶馬渓にて2

耶馬渓にて3
「あの道、この道、あの山で
 随分奥迄迷ひ込んで---
 パッと陽がさして小鳥がチロチロないていた。」

次の写真は母は写っていないようですが、添書きが面白い。
耶馬渓にて4
「やっとみつけた岩清水
 お米をといでおネギを洗って---
 耳をすますとあの日の谷間のせせらぎが
 聞えるやう。」

女学校を卒業しOL生活にも慣れた頃、毎日が楽しく充実していたのでしょう。
自分の母親に、こんな時代があったとは。
母親って、ずーっと昔から母親だったような気がしますが、
確かにそんなはずはないんですよね。

ところで、娘時代に聞いた「谷間のせせらぎ」って、
歳をとってからでも耳をすませば聞こえるものなんでしょうか?
一体いくつまで聞こえていたのだろうか。

(終り)