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吉祥寺でイクメン時代の私2016年10月02日


吉祥寺北町保育園からの帰り
この写真は、
自転車に長女を乗せた私が、武蔵野市立「北町保育園」から
五日市街道沿いの自宅アパート(富士ハイム)へ戻るところです。
1980年8月の写真です。
時々、保育園のお迎えをやっていたのですね。

この頃、多くの企業や官公庁では土曜日は「半ドン」でした。
私の場合、その土曜日の午後の過ごし方としては、
新宿の職場から府中競馬場へ直行するか、あるいは
新宿西口の雀荘で仕事仲間と卓を囲むか、でした。
長女が生まれる前までは。

ところが共稼ぎ・子持ちの身となると、
家庭破綻を避けるためには、応分の負担が発生します。
その一つが、土曜日の午後一に、
保育園へ娘を引き取りに行くことだったわけです。
自転車の前部座席にまたがらせて、荷台には通園袋を積んでです。
こんな風に座席に座れるようになる前は背負子ショイコでした。
自転車写真の一年前、1979年の10月の写真があります。
背負子の娘
だいたい午後一に迎えに行くと、お昼寝の最中でした。
そして、娘を起こして引き取るために保育室にそーっと入って行くと、
若い保母さんが子供たちと一緒に大胆に寝入っていたりして、
気の弱い私は、少しドギマギしたりしました。
とにかく、それで連れ帰ってきた娘は、
また背負子の中で正体なく眠っていました。

先日、最初の写真が撮られた場所を訪れて、撮影してみました。
現在の北町の通り
そしたら、道の両側、ほとんど全ての住宅が建て替っていました。
確かに36年前のことですからね。
(日本の住宅の平均寿命は30年だそうです)
ただし、道の雰囲気はほとんど変わっていないところが面白いです。
電柱とその控えワイヤー、道路のマンホールの位置も同じみたいです。
また、今年の写真の右側に工事資材が積まれているでしょう?
これは富士ハイム跡地(一時はトヨタレンタカーだった)に
新しいマンション(アパート)を建てているところなんですね。
家族向け25戸の4階建て共同住宅だそうです。
富士ハイム跡地

グレード的に、我が家と同じ中流家庭が入りそうなマンションなので、
きっと皆さん共稼ぎで、子供は保育園に預けることになるでしょうね。
一生懸命保活して、北町保育園にはいれるとラッキーだと思います。
大きな通りを横切らずに住宅街の中を通るだけで、
自転車で快適に送り迎えできますから。

航空写真に、36年前の撮影場所などを落とし込んでみました。
吉祥寺北町の航空写真
(国土地理院、地上2100mからの空中写真閲覧サービスによる)
この航空写真も、まさに1979年10月の撮影だそうですから、
虫眼鏡でよく見れば、自転車に乗った私と背負子の中の娘とが、
2100m下の地面を走っている姿が写っているかも知れません。

続く

北町保育園への道12016年10月07日

前回)からの続きです。

長女の通う武蔵野市立「北町保育園」へ、
一家三人でお出かけした動画がありました。
内容を見ると、保育園の参観日だったようです。
その動画の最初の部分を切り出してみます。

1981年の7月26日、私にとって8mmフィルム初体験でした。
朝の日差しが眩しい、いかにも夏!っていう映像でしょう?
道路面のハイライトとシャドウのコントラストが、
本当に「記憶の中の景色」っぽいと思います。

この道が現在どうなっているか、先日確認してみました。
北町の現在の道1
まず撮影場所の確定については、
この辺かな?と見当をつけた場所で間違いありませんでした。
昔の動画では、電柱に「子供の飛び出し注意」の看板があり、
子供の代わりにオバちゃんが飛び出してきていますが、その路地がありました。
そして、その手前にはマンホールが動画と同じ部分にありました。
また、突き当りが十字路でなく、T字路であることも傍証ですね。
国土地理院の空中写真に撮影位置を示すと、次のようになります。
空撮

そして何よりも、私たちが住んでいた北町一丁目の「富士ハイム」から、
「北町保育園」へ向かう道の、最初の部分であることも傍証の一つです。
だって、初体験の8mmカメラ、使いたくてしょうがないはずですから、
その撮影ボタン、外に出て歩き始めて、すぐに押したに決まってますよね。

ところが、このカメラの保証書が残っていて、
そこには購入日として"1981.7.8"と記入されていました。
canon514xl
ということは、購入から最初の撮影まで18日間も経っています。

今デジタルカメラを買ったら、その日にすぐ試写するはずです。
でも昔は3分間の8mmフィルムは現像代と合わせると二千円くらいしたのかな、
そういう高価で貴重なフィルムでしたから、
撮影する価値のあるイベントが来るまで、我慢して待っていたのでしょうね。
そして遂に保育園の参観日!!だったんですね。
そのころは、ポケットに入る小さな機械(スマホ)で、
すぐ動画が撮れるような時代が来るとは、思いもしなかったです。

そんな8mmフィルム用カメラは、"キャノン Canon 514XL"
canon514xl
再び使用することは絶対にありえませんが、まだ捨てられません。

続く

北町保育園への道2:自転車の令嬢2016年10月12日

前回)からの続きです。

武蔵野市立「北町保育園」に到着する直前の女房と長女です。

1981年の7月26日、8mmフィルムで撮影したものです。
当時の記憶を再現するために、先日、保育園へ向かって歩いていると、
すぐ手前の角に「北町コミュニティセンター」がありました。
北町コミセン
「そうだ!これがあったんだ」と昔の記憶が一部よみがえりました。
35年前と同じ姿で、この北町コミセンは残っていたんですね。
そして、この建物の右隣が、動画にも写っている保育園の入口でした。
だから、お弁当を抱えた長女がピョコピョコ歩いていた道は、
この写真右手の道路のはずです。

コミセン角から撮影すると、現在は次のような様子です。
保育園前の道
ところが、ピョコピョコ部分を動画から切り出して、
動画切り出し
この画像と、さっきの現在の写真とを比較すると、明らかに違う道でした。
それで、もう少し慎重に昔の画像を観察しました。
更に、自宅アパートと保育園を結ぶ通園ルートを想定し、再検討の結果、
コミセンに至る前の「JRアパート」西側の道が正解であろうとの結論を得ました。
現在のJRアパート西側の道
後日、再度現地を訪れて撮影したのがこの写真です。
左側に見えているのがJRアパート群です。
今度は間違いありません。
道幅、影の落ちる方向、道路脇の広めの排水溝、柵の内側の緑地帯、
また、突き当りがT字路である事など、
昔の風景に特徴的だったものが、今もしっかり残っていますね。

この時に想定した通園ルートを、せっかくですので、
国土地理院の空撮に白点線で落とし込んでみました。
北町保育園通園ルート
ほぼ碁盤目状の街区のため、ルートの想定は何通りか可能です。
でも、実際に歩いてみると、道幅や車の交通量、道の雰囲気などから、
「この道が、歩いたり、自転車で通るのに気持ちよい!」
という記憶(感覚)がよみがえり、通園ルートは一義的に決まりました。

さて、今回は空振りに終わったコミセンと保育園の北側の道の写真、
保育園前の道2
実は別の昔の写真の撮影場所を教えてくれました。
それは、次の写真、女房が自転車に乗っている写真です。
自転車に乗る女房
道路右手の植栽(これもJRアパート)の様子が随分と様変わりしていますが、
コンクリート擁壁とその上の斜面緑地、という構成は完全に残っていますね。
「この撮影場所はどこだったかな?」としばらく前から思案していたのです。
ちなみに、これは1977年8月の写真です。
という事は私が目白から吉祥寺に引っ越した翌年です。
目白では必要性がなく、かつ置き場所もなかったので持てなかった自転車、
吉祥寺では役に立ちそうかなと思って買ったのでした。
井の頭公園入口近くの自転車屋さんで4万円程度だったと記憶しています。
外部10段変速機つきの、ブリジストンの高級自転車でしたよ。

ところが、実は女房は自転車が苦手でした。
彼女に言わせると「東京育ちのお嬢様は練習する機会がない」のだそうです。
女房のお母さんも、危ないからと父親(女房の祖父)に禁止されていたらしい。
それでも、自転車を手に入れて、吉祥寺の裏道を風を切って走ってみたら爽快!
そんな表情をしていますね。
でもこの時は、翌年に長女が生まれ、この道の左側にある「北町保育園」に、
ゼロ歳児として預ける事になろうとは(私は)考えもしなかったです。
そう思うと、この道は私の家族とは深い縁のある道だったんですね。
自転車にしてみれば、
この数年後にはサドルに女房、その前後には複数の子供を乗せ、
立派な「ママチャリ」として吉祥寺の街を走り回る事になるとは、
多分まったく想像していなかったでしょう。

さて、他にも自転車の令嬢の写真がありました。
撮影場所不明の自転車の令嬢
これも同じ日の撮影ですから、吉祥寺北町一丁目付近のはずです。
(まだ、それほど遠くまでいけない頃)
ところが、こちらの写真については、
該当しそうな現在の風景を探しても、「全く」手がかりがありませんでした。
写真に写っているように、
進入禁止の標識のある遠方の狭い道と、そこに突き当たる手前の道との接続部、
また、周辺の鬱蒼とした緑地など、
かなり特徴的な風景なのですが、見つかりませんでした。
確かに、特徴的な風景って、その特徴が失われたら逆に探せませんね。
この場所も、39年の間には、いかにも一変しそうな風景ではあります。

(この項、一旦終了)

色合いも様々な新宿御苑の風景2016年10月19日

先週末、久しぶりの晴天のもと新宿御苑へ walk & shoot に行きました。
新宿御苑新宿門
持って行ったのは久しぶりのニコンD600、デジカメです。

写欲をそそるモデルの中でも、やはり子供の姿がいいです。
新宿御苑の子供
何も造らない自然な動作と表情が素敵です。
また、連れ合いのポートレートを撮るおじさんの姿も私の好みです。
新宿御苑の夫婦
このような、周囲に何の気兼ねもしない自然体がいいんです。

一方、こんな面白い情景も。
新宿御苑の人形
人形の姿を整えて、最高のモデルとして造り上げようとしていました。
自然に遊ぶ子供の姿と正反対で、これはこれで興味深いですね。
また、次のように、モデルさんの姿勢から衣装の襞まで、
何度も何度も整え直して作り込んでいるプロがいました。
新宿御苑のモデル撮影
タゲレオタイプの時代も、こんな風にやっていたのでしょう。

これらの写真を見て思うことは、
新宿御苑ってこんなに色鮮やかだったかな、ということ。
特に、iPhoneで撮った次のバラ園の写真など、
バラ(品種は「紅」クレナイ)と空の青さの対比がすごいです。
新宿御苑のバラ園

私の記憶の中にある御苑の風景は、次のようなものです。
昔の新宿御苑1
1977年だから39年前の風景です。
昔の芝生は、このように落ち着いた緑色だったと思うのですが、
そうではなく、昔のフィルムが退色しただけなのでしょうかね?
次のような写真もあって、
昔の新宿御苑2
八重桜の咲き方から、
これは桜の季節も終わりに近づいた4月半ばの写真であることが分かります。
(実際、4月17日でした)

ところが、良く知られているように別の季節に咲く桜もあって、
御苑でもその桜の周りでは、多くの人が写真を撮っていましたね。
次の写真が、年に二回咲く「十月桜」です。
新宿御苑の十月桜
次が「子福桜」でこれも二回咲き。
新宿御苑の子福桜
秋空に八重の花びらが良い感じです。
一つの花に複数の実をつけることで、この名前が付いたそうですが、
子や孫が生まれた後にこの桜を鑑賞すると、想うことが様々あるでしょうね。

吉祥寺40年前の女みこし2016年10月27日

1976年の8月中旬、吉祥寺の街を歩いていた私は、
夏祭りの神輿が練り歩く姿に出会いました。
私自身は、旅行か何かの帰りだったのでしょうか、
NikonF2をぶら下げていましたので、数枚の写真を撮りました。
昔の吉祥寺のお神輿

お神輿の前から撮影
先日、久しぶりにこれらの写真を目にして、当然
「撮影場所はどこだったかな?」と気になりました。
次の写真で提灯に「サンロード」と書いてあっても、
この場所がサンロードでないことは常識ですね。
サンロード神輿
また、男衆に混じって、ちょっと艶やかな女子が神輿を担いだ写真もありました。
平和通りの神輿
彼女の法被に「平和通り」と書いてありますが、
もちろんこれも平和通りで撮った写真ではありません。

吉祥寺に住んでいる方なら、この写真の背景に写っている大型店舗は、
「東急百貨店・吉祥寺店」ではないか、と見当がつきますね。
また、この写真左の黄色い電柱に、
「吉祥寺東急大通り」と書かれているのがかろうじて読めます。
これらから判断して、神輿が練り歩いた道は、
東急百貨店の東側の道路であることが分かります。
この通りの現在の様子はこうです。
「八幡宮前」の交差点から南方向を撮りました。
今の公園通り
ここは「東急大通り」とか「吉祥寺通り」とか呼ばれることもありますが、
私たちは「公園通り」という名称が好きでした。
というのは、道路の遠方に見えている中央線のガードを潜ると、
すぐ前方に井の頭公園があります。
この写真を見ただけで、そんな公園の雰囲気を想起させる道だからです。

お神輿の写真を撮影した1976年は、ちょうど吉祥寺に住み始めた年でした。
その頃の私が「吉祥寺っ子」になる最初の関門は、
駅北側の通りの名称を覚える事でした。
40年前の私に戻って、地図に通り名を落とし込んでみましたよ。
吉祥寺駅周辺の通り名
現在では、ペニーレーンとかプチロードとか、
覚えるべき通り名が倍増しているようですね。

さて、女性も混じって担いだ神輿だけでなく、
何と女性だけの神輿も練り歩いていました。
昔の吉祥寺の女みこし
この撮影地点を詳細に探索してみる事にしました。
当初は、下の地図の赤字の「1」ではないかと思いました。
お神輿の撮影地点
その地点の現在の様子は次のとおりです。
みずほ銀行から東急百貨店
左に「みずほ銀行」、右に東急百貨店の建物隅が写っているでしょう?
その雰囲気が昔と似ています。

ところが、その推測は次の写真で覆されました。
吉祥寺の女みこし続き
先ほどの女神輿がもう少し進んだ位置での写真です。
この左側に「太平信用金庫吉祥寺支店新築工事」とあります。
この建物がみずほ銀行にでも買い取られていれば、
現在の写真と辻褄が合いますが、そうではなさそうです。
ネットで調べると、この信用金庫は、
丁度10年前の合併で「多摩信用金庫」になっているのでした。
という事は、撮影地点は先ほどの地図で示した赤字の「2」になります。
「商工会館前」の交差点ですね。
現在の様子を撮ってみました。
たましん前から東急百貨店
「たましん」が左、東急百貨店が右側にきちんとおさまりました。

そして、つぎのような傍証も見つかりました。
女神輿の一枚目の右上を拡大すると次のようになります。
昔の東急百貨店の外部階段
外部階段と2階のテラスが写っています。
この場所の現在の様子を「たましん」前から撮ると次のとおりです。
今の外部階段とテラス
階段とテラスの手すりが昔の縦格子からスモークガラスに変わっていますが、
本体の形状と位置関係が同じでしょう?
一件落着。

それにしても40年前に威勢良く神輿を担いでいた女性たち、
見たところ私とほぼ同世代のようです。
ということは、今頃は神輿の代わりに孫を肩に担いで、
吉祥寺の街を練り歩いているのでしょうか。