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・地中海バブル旅行etc.:目次
・旅のつれづれ:目次
・母のアルバム:目次
・目白ジオラマ鉄道模型:目次
・すべてのカメラに名前がある:目次
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「みやび」が集う青葉公園 ― 2016年12月23日
(前回)からの続きです。
これまでの考察をまとめると、
「青葉公園」の昔の遊び場にあった各種の遊具やお砂場は消失し、
その代わり樹木が成長して森のようになった、と言えます。
でも、遊具が完全になくなっちゃった訳ではありません。
敷地の南側の端から反対側を見てみると、
ケヤキやコナラや桜の樹間に、カラフルな工作物が見えました。
これまでの考察をまとめると、
「青葉公園」の昔の遊び場にあった各種の遊具やお砂場は消失し、
その代わり樹木が成長して森のようになった、と言えます。
でも、遊具が完全になくなっちゃった訳ではありません。
敷地の南側の端から反対側を見てみると、
ケヤキやコナラや桜の樹間に、カラフルな工作物が見えました。
近づけば、それは昔に比べると、とっても色鮮やかな滑り台、
その手前に鉄棒
そしてブランコです。
公園北側から全体を撮ると、次のように
タブノキやコナラの樹が植わっている隙間に、
ややランダムに遊具が設置されています。
残念ながら、お砂場は完全に消失していました。
さて、ここまで、昔と今の青葉公園について調べてみたので、
その変遷を、国土地理院の空撮とGoogleEarthを使って、
年代順に確認してみます。
ややランダムに遊具が設置されています。
残念ながら、お砂場は完全に消失していました。
さて、ここまで、昔と今の青葉公園について調べてみたので、
その変遷を、国土地理院の空撮とGoogleEarthを使って、
年代順に確認してみます。
1975年は、私が北町に移り住む前年です。公園(黒枠)造成中。
1979年は、長女が北町保育園に入園した年。
この頃、公園遊具は敷地南側に設置されていました。
2016年は、写真の通り、空から見ると完全に「森」となりました。
遊具は敷地北側の空地に設置されています。
ところで、この公園の現在の名称は「みやび青葉公園」だそうです。
いつの間にか「みやび」が付け加えられましたね。
1979年は、長女が北町保育園に入園した年。
この頃、公園遊具は敷地南側に設置されていました。
2016年は、写真の通り、空から見ると完全に「森」となりました。
遊具は敷地北側の空地に設置されています。
ところで、この公園の現在の名称は「みやび青葉公園」だそうです。
いつの間にか「みやび」が付け加えられましたね。
ここに集う親子の姿が「みやび」だったから、
こう呼ばれるようになったのでしょうか?
1982年、みやびに遊ぶ我家の娘ふたりを再掲します。
滑り台に2人、お砂場に1人(合成写真なのでこうなりました)
こう呼ばれるようになったのでしょうか?
1982年、みやびに遊ぶ我家の娘ふたりを再掲します。
滑り台に2人、お砂場に1人(合成写真なのでこうなりました)
当時、みやびな撮影に使用したカメラは次の3台でした。
(この項終わり)
森になっちゃった青葉公園 ― 2016年12月21日
この写真は、昔私が住んでいた吉祥寺北町のアパートから、
「青葉公園」へ至る道の、現在の姿です。
道路右手の茂みは、昔の国鉄北町アパート、現在のJR北町住宅です。
左手の民家に覆いかぶさるように聳えているケヤキの大木があるでしょう?
ここが現在の青葉公園です。
昔の写真をみると、こんな森のような場所ではありません。
その35年前の青葉公園の姿が明瞭に読み取れる写真が何枚か見つかりました。
NikonF2によるものとOlympusXA2による写真です。
そのうちNikon分は、前回紹介した8mmフィルムと同日に撮影したものでした。
(つまり私自身、すっかり忘れていたけれども、
その日は8mm撮影機とニコンF2の二刀流だったわけです。)
8mmのキャプチャと35mmカメラでの写真をいくつか紹介します。
「青葉公園」へ至る道の、現在の姿です。
道路右手の茂みは、昔の国鉄北町アパート、現在のJR北町住宅です。
左手の民家に覆いかぶさるように聳えているケヤキの大木があるでしょう?
ここが現在の青葉公園です。
昔の写真をみると、こんな森のような場所ではありません。
その35年前の青葉公園の姿が明瞭に読み取れる写真が何枚か見つかりました。
NikonF2によるものとOlympusXA2による写真です。
そのうちNikon分は、前回紹介した8mmフィルムと同日に撮影したものでした。
(つまり私自身、すっかり忘れていたけれども、
その日は8mm撮影機とニコンF2の二刀流だったわけです。)
8mmのキャプチャと35mmカメラでの写真をいくつか紹介します。
滑り台の傾斜を怖がっている娘の裏手に、
真新しい国鉄アパートの姿がかすかに写っています。
次はお砂場遊びの写真。
81年の8mmと、82年のフィルムカメラ(オリンパスXA2)から。
真新しい国鉄アパートの姿がかすかに写っています。
次はお砂場遊びの写真。
81年の8mmと、82年のフィルムカメラ(オリンパスXA2)から。
国鉄アパートのフェンスも真新しい感じ。
ベンチに座っている女性はご近所のお母さんでしょうか、
楽しそうに談笑していますね。
ちなみに、こちらの現在の様子は次のようになっています。
ベンチに座っている女性はご近所のお母さんでしょうか、
楽しそうに談笑していますね。
ちなみに、こちらの現在の様子は次のようになっています。
公園内の滑り台やお砂場は消え、アパートの樹木が大振りになっていますね。
次は公園の南東出入り口近くのブランコ。
次は公園の南東出入り口近くのブランコ。
この出入り口近くも現在は次のようになりました。
出入り口自体は同じ場所にありました。
現在ベンチが置かれているあたりに、昔はブランコがあったはずです。
さて、1982年の写真のうち2枚を合成すると、
当時の遊び場の全貌が把握できることがわかりました。
次の通りです。
現在ベンチが置かれているあたりに、昔はブランコがあったはずです。
さて、1982年の写真のうち2枚を合成すると、
当時の遊び場の全貌が把握できることがわかりました。
次の通りです。
そして、同様に現在の状況を見てみるとこうです。
35年前の青葉公園に遊んだ日 ― 2016年12月17日
(前回)からの続きです。
公園の滑り台を、ズリズリと滑っている娘の動画があります。
35年前のものですから、原板は8mmフィルムです。
それをデジタル化して保存しています。
また、母とブランコに揺られているものもあります。
その他、全部合わせても、わずか2分ほどの動画です。
フィルムのリールには「81年7月青葉公園」と書かれていました。
だから、この公園が撮影場所であることは当然です。
ところが随分と昔のことなので、
・動画の映像、
・青葉公園という名称、
・撮影に使ったキャノンの8mmカメラ、
などの個別の記憶は確かながら、
「吉祥寺北町のあの場所で私がカメラを構えて撮影したんだ!」
という実感はほとんど消えています。
撮影の結果としての「映像」はもちろん貴重ですが、
むしろ、その撮影プロセスの「実感」こそが、
実はもっと貴重な人生の果実ではないのか、
と最近思うようになりました。
というわけで、その果実を再収穫するために、
この青葉公園を再訪することにしました。
そして、新旧の風景を比較して、時の経過も実感してみたいのです。
さて、新旧の風景を比較するためには、
昔の公園の姿もきちんと確認したくなります。
となると、古く色あせた8mm動画では少し心もとないです。
それで昔の写真を探ってみたら、ありました。
これまでは特に撮影場所を特定していなかった写真ですが、
今回の8mmフィルムの映像と照合することによって、
青葉公園の写真と判明したものです。
例えば次の写真、1982年の夏の青葉公園です。
公園の滑り台を、ズリズリと滑っている娘の動画があります。
35年前のものですから、原板は8mmフィルムです。
それをデジタル化して保存しています。
また、母とブランコに揺られているものもあります。
その他、全部合わせても、わずか2分ほどの動画です。
フィルムのリールには「81年7月青葉公園」と書かれていました。
だから、この公園が撮影場所であることは当然です。
ところが随分と昔のことなので、
・動画の映像、
・青葉公園という名称、
・撮影に使ったキャノンの8mmカメラ、
などの個別の記憶は確かながら、
「吉祥寺北町のあの場所で私がカメラを構えて撮影したんだ!」
という実感はほとんど消えています。
撮影の結果としての「映像」はもちろん貴重ですが、
むしろ、その撮影プロセスの「実感」こそが、
実はもっと貴重な人生の果実ではないのか、
と最近思うようになりました。
というわけで、その果実を再収穫するために、
この青葉公園を再訪することにしました。
そして、新旧の風景を比較して、時の経過も実感してみたいのです。
さて、新旧の風景を比較するためには、
昔の公園の姿もきちんと確認したくなります。
となると、古く色あせた8mm動画では少し心もとないです。
それで昔の写真を探ってみたら、ありました。
これまでは特に撮影場所を特定していなかった写真ですが、
今回の8mmフィルムの映像と照合することによって、
青葉公園の写真と判明したものです。
例えば次の写真、1982年の夏の青葉公園です。
40年前の北町こども広場 ― 2016年12月15日
(前回)からの続きです。
吉祥寺ムーバスのバス停名にもなっている「北町こども広場」、
ここは、私の住まいから至近距離にある遊び場でした。
そのため、ここで遊ぶ娘の写真を何枚か撮影していました。
1980年頃のことです。
その写真と現在の様子を比較しようと思います。
まず、その数年前の1975年の空撮を見てみると、
吉祥寺ムーバスのバス停名にもなっている「北町こども広場」、
ここは、私の住まいから至近距離にある遊び場でした。
そのため、ここで遊ぶ娘の写真を何枚か撮影していました。
1980年頃のことです。
その写真と現在の様子を比較しようと思います。
まず、その数年前の1975年の空撮を見てみると、
こども広場は国鉄アパートと共に造成中であることが分かります。
武蔵野市の中でも北に位置するこの周辺は低層の住宅街でした。
そこに中層の団地ができ、保育園やコミセンが整備され、
テニスコートや公園などの施設も充実していく時代だったわけです。
いわば、その地域の青年期でしょうか。
それから約40年経過した現在の「こども広場」の様子は次のようでした。
武蔵野市の中でも北に位置するこの周辺は低層の住宅街でした。
そこに中層の団地ができ、保育園やコミセンが整備され、
テニスコートや公園などの施設も充実していく時代だったわけです。
いわば、その地域の青年期でしょうか。
それから約40年経過した現在の「こども広場」の様子は次のようでした。
これを昔の写真と比較してみましょう。
いくつかの変更点が見つかります。
まず、砂場前の動物(像とキリン)がいなくなりました。
いくつかの変更点が見つかります。
まず、砂場前の動物(像とキリン)がいなくなりました。
それから、この写真にも写っていた砂場内のイルカが見当たりません。
イルカは、次のように、こどものお気に入りだったのですが。
イルカは、次のように、こどものお気に入りだったのですが。
この1年後、自力で跨がれるようになってもお気に入りだったようです。
この写真でイルカの後ろに真新しい国鉄アパートが写っていますね。
これは、そのまま残っていました。次の写真です。
これは、そのまま残っていました。次の写真です。
ずいぶん雰囲気が違うのは、広場の樹木が大きく成長したからですね。
この視点からずっと後ろに下がってみると、ブランコがあります。
この視点からずっと後ろに下がってみると、ブランコがあります。
まさに「成長中」の子供がたくさん遊んでいます。
ほとんど水平になるくらいブランコを漕いでいますね。
次の写真は1979年のブランコ。
自分では漕げないから、母の膝で、
ほとんど水平になるくらいブランコを漕いでいますね。
次の写真は1979年のブランコ。
自分では漕げないから、母の膝で、
あるいは父の膝に乗って揺れる感覚を楽しんでいたわけです。
この写真でブランコの両側に、ベンチと水飲み場があるでしょう?
現在も、デザインは変わりましたが同じ位置に存在していました。
現在も、デザインは変わりましたが同じ位置に存在していました。
成長する樹木と違って、コンクリート製の遊具は、
ほとんどそのままの姿で残っていました。
(最初の動物のように撤去されない限りは)
そして、次の写真のコンクリート製の築山、
この反対側(砂場側)は滑り台になっています。
ここで、斜面の真ん中に、縦に長くクラックの補修跡が見えるでしょう?
この形、実は次の1979年の写真でも全く同じ形状でした。
この形、実は次の1979年の写真でも全く同じ形状でした。
ということは滑り台が作られた直後こそクラックが生じたものの、
その後は三十数年間、クラック被害は拡大していないということですね。
素晴らしい!(妙なところで感心)
この滑り台をバックに撮影した記念写真がありました。
その後は三十数年間、クラック被害は拡大していないということですね。
素晴らしい!(妙なところで感心)
この滑り台をバックに撮影した記念写真がありました。
写真のメモには「保育園のふみき」とありました。
同じ北町保育園に通っていた坊やの名前でしょう。
このふみきくんとパパ、
「北町こども広場」を今でも覚えているでしょうか?
ちなみに、ふみきの隣に写っている我が家の長女は、
公園のことも砂場のことも、そしてふみきのことも、
全く何も覚えていないと思いますよ。
(続く)
同じ北町保育園に通っていた坊やの名前でしょう。
このふみきくんとパパ、
「北町こども広場」を今でも覚えているでしょうか?
ちなみに、ふみきの隣に写っている我が家の長女は、
公園のことも砂場のことも、そしてふみきのことも、
全く何も覚えていないと思いますよ。
(続く)
国鉄時代の吉祥寺テニスクラブ ― 2016年12月07日
幾つかの区画ごとに複数の中層住宅が建っていて、
総棟数は両手でも数え切れないぐらい。
上の写真の門標には、正確な団地名が記されていますが、
この南側の区画には、次のような案内板が残っていました。
総棟数は両手でも数え切れないぐらい。
上の写真の門標には、正確な団地名が記されていますが、
この南側の区画には、次のような案内板が残っていました。
初めの二文字「国鉄」は私が勝手に復元したものです。
不自然に二文字分の空白があったので、推測で入れてみました。
多分40年くらい前の看板を使い続けているのだと思います。
バス停を挟んでJR社宅の向かい側には、比較的新しい建物がありました。
その建物のJR社宅側の外観(西側)は次のようになっています。
不自然に二文字分の空白があったので、推測で入れてみました。
多分40年くらい前の看板を使い続けているのだと思います。
バス停を挟んでJR社宅の向かい側には、比較的新しい建物がありました。
その建物のJR社宅側の外観(西側)は次のようになっています。
南側から見るとこうです。
看板に「吉祥寺ホーム」と書いてあるように、養護老人ホームです。
ここは、私が北町に住んでいた頃は国鉄の「吉祥寺テニスクラブ」でした。
(どういう運営形態だったのか、国鉄との関係は不明)
この周辺の昔の様子を、国土地理院の空撮で確認してみましょう。
私が吉祥寺北町に越してくる前年の1975年の空撮では次の通りです。
ここは、私が北町に住んでいた頃は国鉄の「吉祥寺テニスクラブ」でした。
(どういう運営形態だったのか、国鉄との関係は不明)
この周辺の昔の様子を、国土地理院の空撮で確認してみましょう。
私が吉祥寺北町に越してくる前年の1975年の空撮では次の通りです。
第四小学校と国鉄アパートの間に低層の社宅群がありますね。
これが四年後の1979年には次のように変貌しました。
これが四年後の1979年には次のように変貌しました。
これを見ると、一帯の国鉄アパート建設に合わせて
低層社宅群が撤去されて吉祥寺テニスクラブになり、
また、武蔵野市によりコミセンや保育園が整備されたことが分かります。
さて、テニスクラブ周辺の様子に、なぜ私がこだわっているかというと、
実は一枚の昔の写真の撮影場所を探していたからです。
そして様々な角度から調査検討した結果、
上の航空写真で「カメラ」と書いた位置が、その写真の撮影場所であろう、
との結論に至りました。
その昔の写真を、現在の風景と次のように合成してみました。
低層社宅群が撤去されて吉祥寺テニスクラブになり、
また、武蔵野市によりコミセンや保育園が整備されたことが分かります。
さて、テニスクラブ周辺の様子に、なぜ私がこだわっているかというと、
実は一枚の昔の写真の撮影場所を探していたからです。
そして様々な角度から調査検討した結果、
上の航空写真で「カメラ」と書いた位置が、その写真の撮影場所であろう、
との結論に至りました。
その昔の写真を、現在の風景と次のように合成してみました。
これは「北町保育園への道2」でも取り上げた、
「自転車に乗る女房」シリーズの一枚です。
1977年8月の撮影です。
撮影場所について、確実な根拠はありません。
でも傍証?は少しばかりあります。例えば、
・黒のフェンスの形状が、当時国鉄アパートで使われたものと同じ。
・カイヅカイブキの列植の隙間から見える建物がクラブハウスっぽい?
・昔も今も、自転車の練習をするのに良さそうな道路である。
・その後、女房はこの自転車に乗り、このテニスクラブに通ったこともある。
テニスクラブが実施していたスクールに通っていたのですね。
ところが、翌年には長女が生まれ、テニスどころではなくなりました。
だから一年間も通わなかったかもしれません。
そのテニスラケットが写った1980年の写真がありました。
「自転車に乗る女房」シリーズの一枚です。
1977年8月の撮影です。
撮影場所について、確実な根拠はありません。
でも傍証?は少しばかりあります。例えば、
・黒のフェンスの形状が、当時国鉄アパートで使われたものと同じ。
・カイヅカイブキの列植の隙間から見える建物がクラブハウスっぽい?
・昔も今も、自転車の練習をするのに良さそうな道路である。
・その後、女房はこの自転車に乗り、このテニスクラブに通ったこともある。
テニスクラブが実施していたスクールに通っていたのですね。
ところが、翌年には長女が生まれ、テニスどころではなくなりました。
だから一年間も通わなかったかもしれません。
そのテニスラケットが写った1980年の写真がありました。
あまり使われずに綺麗なままの、今では珍しい木製ラケットです。
そんなふうに一時期わずかながらも縁があったテニスクラブですので、
その現在の姿に興味があり、先日、確かめた所、
老人ホームに変貌していたわけです。
きっと、旧国鉄マンでこの吉祥寺に住んでいた方の中には、
始めは低層社宅に住み、その後中層アパートに移り、
社宅跡のテニスクラブで遊び、今はこの「吉祥寺ホーム」の住人、
なんて方もいらっしゃるでしょうから、一度話を聞いてみたいものです。
そうすれば、撮影場所についての私の推論の適否も判断できるはずです。
ちなみに国鉄民営化は1987年のこと。
「国鉄吉祥寺北町アパート」は一斉に、
「JR吉祥寺北町アパート」になったんですね。
先ほどの古びた案内板などは、
民営化された時に「国鉄」の文字を消したけれども、
「JR」に馴染めず、書き換えをためらっているうちに30年経ってしまって、
現在は二文字分の空白が残っているのじゃないでしょうか?
また第四小学校北側に「大蔵省関東財務局吉祥寺住宅」がありました。
これはその後、三菱地所の「パークハウス吉祥寺北町グローヴ」に変貌。
ちょうど私が目白に戻ってきた2006年に竣工した分譲マンションです。
目白にしようか、この「グローヴ」にしようか迷った記憶があります。
(続く)
そんなふうに一時期わずかながらも縁があったテニスクラブですので、
その現在の姿に興味があり、先日、確かめた所、
老人ホームに変貌していたわけです。
きっと、旧国鉄マンでこの吉祥寺に住んでいた方の中には、
始めは低層社宅に住み、その後中層アパートに移り、
社宅跡のテニスクラブで遊び、今はこの「吉祥寺ホーム」の住人、
なんて方もいらっしゃるでしょうから、一度話を聞いてみたいものです。
そうすれば、撮影場所についての私の推論の適否も判断できるはずです。
ちなみに国鉄民営化は1987年のこと。
「国鉄吉祥寺北町アパート」は一斉に、
「JR吉祥寺北町アパート」になったんですね。
先ほどの古びた案内板などは、
民営化された時に「国鉄」の文字を消したけれども、
「JR」に馴染めず、書き換えをためらっているうちに30年経ってしまって、
現在は二文字分の空白が残っているのじゃないでしょうか?
また第四小学校北側に「大蔵省関東財務局吉祥寺住宅」がありました。
これはその後、三菱地所の「パークハウス吉祥寺北町グローヴ」に変貌。
ちょうど私が目白に戻ってきた2006年に竣工した分譲マンションです。
目白にしようか、この「グローヴ」にしようか迷った記憶があります。
(続く)
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