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中学の修学旅行で毛越寺2018年09月27日

母の遺品の中から出てきた一冊のアルバム。
中学生のアルバム
これは写真屋さんが作るアルバムではなく、
普通の家庭で、記念写真などを台紙に貼り付けていく、
いわゆる「フリーアルバム」ですね。
その出始めの頃、1960年代半ばの製品です。

その後、十年か二十年か後にも何冊かのフリーアルバムを作りました。
主に、子供の写真を貼り付けるためでした。
でも、子供の写真が増える頃って、子育ても大変な時期で、
整理して貼り付ける暇もなくなり、
結局、バラの写真を袋に入れたまま、
何年分もストックするだけになってしまいました。

そんなフリーアルバム、事始めがこれでした。
中学生の私が「ミノルタSR-7」で撮った写真などを、
これに貼り付けて整理していたような記憶ありです。
このアルバム、捨てたつもりでいたら、母が捨てずにいたのですね。
その中に、次のようなページがありました。
02

03

04
中学生の私が修学旅行で東北地方に行った時のページです。
随分、余白が多いです。
多分そこには私自身の写真が貼られていた、と考えるのが妥当です。
クラスの集合写真もあったかもしれません。
では、なぜ無くなったのか?
きっと、何か馬鹿なことを考えて自分で処分したのでしょうね。
もう少し男前になってから撮り直して差し換えるつもりだったのかな?

ともかく、各ページの写真のうち、
何の写真か分かりそうなものを吟味してみると、こうなります。
1ページ目はクラスの友人。
2ページ目は、毛越寺庭園の「出島石組と池中立石」。
毛越寺
それと、芭蕉翁句碑「夏草や兵どもが夢の跡」。
芭蕉翁句碑
この中学の修学旅行自体はほとんど記憶にないのですが、
毛越寺の立派な庭園は今でも覚えています。
3ページ目は「関山中尊寺」の石碑と、
関山中尊寺
次の展示館?のような建物。金色堂の覆堂とは違うようです。
金色堂の本尊御開帳
建物前の看板には「国宝金色堂本尊諸佛特別御開帳中」と書いてあります。

これらの中尊寺の写真と同じページに貼られている風景写真は、
近くの高台から、東北本線を走るSLの白煙を撮ったのでしょう。
東北線と北上川
よく見ると、遠くに北上川が写っています。

それ以降のページの写真は、場所その他不明。
その中では、多分これは松島であろうと推測されます。
これは松島?

こんな修学旅行でした。
その後、50年以上経っているのに、
中尊寺とか毛越寺とか行っていないのです。そんなものですよね。
だから、修学旅行というのは結構貴重な体験だったわけです。
中学生の頃は、そんな有り難みを全然感じなかったです。
勿体ない時代でした。
修学旅行、また、追体験してみたくなりました。

続く

取り戻した記憶(修学旅行で龍安寺)2018年08月04日

前回)からの続きです。

ここ数十年の写真を "Mac" の "iPhoto" で管理している私にとって、
体験 = 写真に残す事、になっています。
だから、以前のブログ記事『作られた記憶「龍安寺の石庭」』では、
石庭の記録写真がiPhotoに残っていない事をもって、
龍安寺には来た事がなかった、と結論づけました。

ところが、母が残していた私の「高校卒業アルバム」を先日みたところ、
その中に在ったのです、まさに「龍安寺の石庭」が。
それが見つかったのは、アルバムのこんなページです。
修学旅行の旅程
奈良・京都を修学旅行で訪れた時の、ある一日の旅程を、
写真の順番で示しているのですね。
デジタルパブリッシングなど無かった時代ですから、
切り抜いた矢印と写真を紙の上に並べて、ページを構成したのでしょう。
なかなか面白いアイデアです。
もっとも、校正をする時間がなかったせいなのか、
右下近くの矢印の向きが逆で、これでは一筆書きになりません。
せっかくだから、次のように訂正しました。これで完成。
旅程修正

本題に戻ると、このページの中央下のあたりに、
石組みが特徴的な枯山水の庭の写真があるでしょう?
拡大してみると次のようです。
半世紀前の龍安寺石庭
これを、今年の初めに訪れた時の次の写真と比較してみると、
築地塀の屋根材が変わっているだけで、全く同じ風景です。
今年の龍安寺石庭
という事は、約半世紀も昔、私は龍安寺に行った事があったのですね。
本当に人間の記憶っていい加減なものです。
失っていたはずの体験が、写真一枚で甦ってしまうのですから。

続く

男子校でイケメンの私2018年07月28日

鷹揚な母が、処分もせず整理もせずに残していった写真の束の中に、
(「祖母の名はフク富久婦久」参照)
私の高校の卒業アルバムがありました。
卒業アルバム
とっくに失われたものと思っていました。

ページを繰って、約半世紀ぶりに自分の写真を眺めてみると、
不思議なことに、
当時の自己判断より「なかなかイケてる青少年」の姿でした。

まず、卒業時に学校の本館前で。
本館前の卒業記念写真

次は、日常風景。
校庭の草むらでの集合写真・お弁当を食べているところ・合唱しているところ。
日常風景

最後は、修学旅行で奈良・京都へ行った時。
興福寺で記念写真
背景は奈良の興福寺五重の塔ですね。

「奈良・京都」へ旅行するのはこの時が初めてでした。
特に古建築に興味があるわけでもない男子高校生にとって、
奈良・京都とか言ったって、たいした感動もない旅行だったと思います。
それが、今こうして眺めてみると、
猿沢池から興福寺へ登る「五十二段」や「五重の塔」の佇まいに感じ入り、
自分の容姿も、なかなかイケてると思えるのは、
世の中の「真善美」への感受性が、年齢とともに研ぎ澄まされたからでしょうか?
あるいは、単に図々しくなっただけ?
いずれにせよ、男だらけの写真って、むさ苦しくていけませんね。
ここでイケメンを誇っても何の得もありません。

続く

50年前の鎌倉大仏2017年07月03日

前回)からの続きです。

前回紹介した「江ノ島稚児ケ淵」の50数年前の写真、
それが見つかったのは次のアルバムでした。
50年前のアルバム

50年前のアルバムの中身
私の小学校の卒業記念アルバムです。

実は私は子供の頃の写真は全部捨てたつもりでした。
多分、思い出写真なんかはどんどん捨てちゃう方がカッコいい、
というちょっと見当違いな考えを持っていたのだと思います。
だから実際に、私の幼少年期の写真はあまり残っていません。
ところが私の知らないところで、母が一部保存していたのでした。
保存していたというよりは、母の性格からすると、
適宜処分するのを、ずーっと怠っていたと言う方が正確かもしれません。
ともかく、そんな鷹揚な母の性格のおかげで、
こんなアルバムの類が何冊か残っていて、
母が亡くなった後、私が引き取ることになりました。
そして、私が先日の鎌倉旅行から帰ってきた後に、
「江ノ島鎌倉への昔の修学旅行の写真もあったかもしれないな」
と思って探してみたら「稚児ケ淵」の写真があった訳です。
当時、小学校の修学旅行としては「江ノ島鎌倉」は定番でした。

ちなみに、修学旅行時の写真はもう一枚ありました。
50年前の鎌倉大仏
高徳院のあまりにも有名な「鎌倉大仏」ですね。
当然、今回の旅行でも撮りましたよ。
現在の鎌倉大仏
昔と同じアングルからの写真になったのは偶然、というか、
撮影地点がここになるのは昔も今も必定ですね。
裏に回って次のような写真を撮る物好きは少数派です。
鎌倉大仏の背中

鎌倉大仏の与謝野晶子の歌碑
「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」(晶子)
フィルムの一コマ一コマが、
その後の焼付け&引延しも含めれば、とても高価で貴重だった時代には、
大仏の背中や歌碑の写真などを撮るのは、
浪費以外の何物でもありませんでした。

さて、ここで今回の旅行の本来の目的を思い出してみると、
それは「アジサイ巡り」でした。
北鎌倉から鎌倉まで紫陽花を求めてお寺巡りなどをしたのです。
例えば、駆込み寺(縁切寺)として有名な「東慶寺」で、
駆け込み寺の東慶寺の紫陽花
あるいは「亀ケ谷(カメガヤツ)切通し」でも
亀ケ谷坂
アジサイが丁度見頃でしたね。
そして、アジサイと共にあちらこちらで見かけたのは小学生のグループ。
亀ケ谷切通し
上の三枚の写真のいずれにも、
四、五名で行動している男の子・女の子が写っているでしょう?
この亀ケ谷切通しを歩いている時に、その内の賢そうな男の子が、
「『海蔵寺』に行くには、この道で良いのでしょうか?」
とよりによって女房に質問していました。
大人はみんな正しい道を歩くのだ、と信頼してくれているのですね。
埼玉県から修学旅行にやってきた小学生たちでした。

ところで、母の残した私の小学校の卒業記念アルバム、
これを眺めて、ふと疑問が湧きました。
卒業アルバムって、写真屋さんが製本して紐で綴じてあるのが普通でしょう?
それに対して、これは市販のアルバムに写真とタイトルを貼り付けたものです。
「変だな〜」と思い、なぜこうなったかを推測してみました。

1.たまたま写真屋さんがこういう作り方をした。
2.写真屋さんから写真の提供を受け、先生が作った。
3.同上、父兄が作った。

昔の記憶を呼び戻してみると、そういえば、
「このアルバムはあなたたちのお母様が作って下さったのですよ。
 大切にいただきましょうね」
というような話を聞きながら受け取ったような気も、少しします。
でも、「こんなことに、父母がそこまで労力を注ぐものかな?」
と思うのが普通でしょう。
[3.]の推測はちょっとありえないような気もします。

ところが、結論から言うと正解は[3.]でした。
私のかすかな記憶は、本当のことだったわけです。
それは、わざわざ推測するまでもなく、
アルバムを改めてめくってみれば、すぐ分かることでした。
次のような一文を記した紙が貼ってあったんです。
アルバムの中に製作者
万一、このアルバムを捨てちゃったりすると、罰があたりますね。

(終り)

50年前の江の島稚児ケ淵2017年07月02日

前回)からの続きです。

先日宿泊した鎌倉プリンスホテルの目の前は七里ヶ浜。
到着した日の夕方、堤防の上から浜越しに「江の島」が見えました。
七里ヶ浜から江の島
「五十年ぶりに江の島に行くのも良いかも」と急遽旅程を変更。
翌日江ノ電に乗って行きました。
02江ノ電七里ヶ浜

江ノ電江ノ島駅
次の弁天橋はすんなり渡りましたが、
弁天橋
島内の階段はそれなりに登りがいがありました。
05
事前調査も何もしてなかったので、
屋外エスカレーターがあることを知ったのは、半分ほど登った後でした。

ともかく、途中は次のような絶景を楽しみながら
06
辺津宮(へつみや)、中津宮(なかつみや)に奥津宮(おくつみや)などを巡り、
島の南西側の岩場まで上ったり降りたりしました。
最後に急勾配の階段を降りて、
07
目の前が開けるところ。
08
ここが「稚児ケ淵」と呼ばれる岩棚です。
パンフレットによれば、「稚児ケ淵の名は、
鎌倉相承院の稚児白菊がこの淵に投身したことに由来しています」
だそうです。

岩棚の上に整備された歩廊を行くと、
稚児ケ淵の歩廊
「岩屋」の入口がありました。
江ノ島岩屋入口
次の写真で、入口の左側の切り立った崖の僅かな平場に、
モルタルで設えたような階段の名残が見えるでしょう?
11
歩廊が整備される前は、
この恐ろしい階段を伝って、岩屋に辿り着いたのでしょうね。
身軽でないと江の島観光はできなかったですね。
岩屋の中に入ると、一人々々に「手燭」が配られました。
江ノ島岩屋の手燭
この一本の蝋燭の光を頼りに洞窟の中を巡りましたよ。
次の写真が「江島神社の発祥の場所」
江島神社発祥の地
「欽明天皇13年(552年)にこの地に鎮座されました」とあります。

さて、歩廊の途中でこんなものが見えました。
江ノ島稚児ケ淵の亀石
「亀石」です。
この亀にまたがると「竜宮城」へ連れて行ってくれるらしい。
行ってみたいものです。

この江の島の自然の中で最も印象的な稚児ケ淵ですが、
何と五十数年前に、ここで撮影した写真がありました。
50年前の江ノ島の稚児ケ淵
東京に戻ってきてから、「もしや?」と思って探してみたら、
むかし修学旅行で江の島を訪れた時の写真が一枚だけ残っていたんです。
しかも、写真中央で海を見つめる後ろ姿の少年、
これは私自身に違いありません。
多分、竜宮城へのお迎えの亀を待っているところでしょう。

そんなこんなで、江の島観光を終えました。
「また同じ道を戻るのも芸がないな」と思い、
帰りは船に乗ることにしました。
稚児ケ淵の一角に船着場があり、そこから弁天橋の中央部まで10分弱の船旅です。
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江ノ島べんてん丸
船の名前は「べんてん丸」。
要は乙姫様ではなく弁天様がお迎えに来てくれたってことなのかな。
船を降りれば竜宮城ならぬ現実の世界です。
丁度半日の観光を終え、お昼時になりましたので、
定番の「しらす丼」を食べました。
江ノ島でしらす丼

続く