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芦ノ湖の箱根神社46年前の鳥居 ― 2023年10月19日
46年前の金沢市庁舎 ― 2020年12月19日
(前回)からの続きです。
46年前の金沢市内観光の写真のうち、
最後まで撮影場所が特定できずにいたのは次の4枚目でした。
金沢市役所、とあります。
明らかに私の写真と同一建物です。
では、この建物はどこに建っていたのか?
そこで、現在の金沢市役所の場所の1975年の航空写真を当たってみました。
画面中心部に、それっぽい屋根が写っているでしょう?
間違いないですね。
現在の地図に落とし込んで見ると、次の通りです。
前回の石川四高との位置関係も納得です。
その石川四高の東側から、昔の市庁舎を撮影したことになります。
撮影場所の現在は、カエデの紅葉の真っ最中。
ここから、正確に昔と同じ撮影方向でパチリ。
写真左側に写っているカエデの木、
1974年当時は細々とした木だったのが、今は立派な大木になりました。
そして、当時の市庁舎は完全に跡形もなく、広場になっていました。
「金沢市庁舎前広場」と呼ばれ、
市民が描く白いキャンバス、との位置付けだそうですが、
私としては、広場よりも、昔の建物が残っていて欲しかったな。
ちなみに、この名建築の取り壊しについては、次の
「金沢市役所の建設年と場所」に詳述されていたので、
以下にその一部を引用します。
○取り壊しの年・場所について
『20世紀の照像 石川写真百年・追想の図譜』(改編版)(118388152)p.58「金沢市役所」によると、大正11(1922)年に完成した庁舎は昭和54(1979)年に取り壊された。
(途中省略)
北國新聞(朝刊)昭和54(1979)年8月21日16面記事「懐かしの市役所旧庁舎百分の一の模型完成」によると、旧庁舎は大正12(1923)年2月の建設で(大正11年の誤りか)、木骨コンクリート一部三階建て延べ1,695平方メートル。屋上のサイレン塔とこれをはさんだドームが特徴で、近世ルネサンス様式を採り入れた、当時では最先端をゆく建物だった。その後の増築で一時、延べ面積3,728平方メートルになったが、昭和46(1971)年7月に一部解体され、ことし6月18日から7月15日にかけ解体撤去されたさいは述べ2,335平方メートルだった。
金沢旅行(終り)
46年前の石川四高 ― 2020年12月11日
このうち撮影場所が既に特定できた分は、
1・2枚目:長町武家屋敷跡
5・6枚目:成巽閣
7枚目:石川橋
です。
残りの3・4枚目について、
1・2枚目:長町武家屋敷跡
5・6枚目:成巽閣
7枚目:石川橋
です。
残りの3・4枚目について、
今回の旅行の前後に調査・確認した内容を以下に纏めてみました。
3枚目のレンガの建物の前に佇む46年前の私。
3枚目のレンガの建物の前に佇む46年前の私。
当然、由緒ある建物であろうと、ガイドブック等を調べてみると、
金沢市内に残るレンガ造りの建物のうち、
「石川四高」の可能性が高そうでした。
地図で確認すると次の場所です。
金沢市内に残るレンガ造りの建物のうち、
「石川四高」の可能性が高そうでした。
地図で確認すると次の場所です。
市内観光2日目の午前中、香林坊までバスで行き、
そこから徒歩で向かうと、前方に見えてきました。
そこから徒歩で向かうと、前方に見えてきました。
それっぽいですね。
この建物、Wikiによれば、
1887年(明治20年)石川県専門学校を前身として第四高等中学校が設立
1894年(明治27年)第四高等学校に改称
されたものだそうです。
46年前と同じ方向から写真を撮ってみました。
この建物、Wikiによれば、
1887年(明治20年)石川県専門学校を前身として第四高等中学校が設立
1894年(明治27年)第四高等学校に改称
されたものだそうです。
46年前と同じ方向から写真を撮ってみました。
二階のアーチ窓の楣部分の意匠が同じツートンですね。
また、良くみると、
私の左側のヒマラヤスギ、何となく雰囲気が昔と同じです。
ということで、一件落着。
なお、事後調査の過程で、金沢の昔の絵葉書を集めたサイトを見つけました。
「金沢絵葉書」です。
そこに、更に古い時代の石川四高の姿がありました。
また、良くみると、
私の左側のヒマラヤスギ、何となく雰囲気が昔と同じです。
ということで、一件落着。
なお、事後調査の過程で、金沢の昔の絵葉書を集めたサイトを見つけました。
「金沢絵葉書」です。
そこに、更に古い時代の石川四高の姿がありました。
46年前の長町武家屋敷 ― 2020年12月07日
(前回)からの続きです。
昔の金沢市内観光の写真に次のようなものがありました。
これがどの辺の写真なのかは、すぐ推測できますね。
観光スポットとして有名な「長町武家屋敷跡」に違いありません。
金沢城公園から500mほど西に行ったところがそのエリアです。
そして見つけたのが次の場所です。
観光スポットとして有名な「長町武家屋敷跡」に違いありません。
金沢城公園から500mほど西に行ったところがそのエリアです。
そして見つけたのが次の場所です。
道の曲がり具合とか雰囲気とか塀の意匠とか46年前と同じです。
この撮影地点は次の地図の[1]番です。
この撮影地点は次の地図の[1]番です。
やはりこの近くの[2]番で撮った写真もありました。
この門もすぐ分かりましたよ。そして撮影。
46年前の石川橋と成巽閣 ― 2020年12月02日
(前回)からの続きです。
1974年に能登を周遊したのは3/21〜22日でした。
その前後の3/20と22日の午後には、
金沢で途中下車して市内観光をしていました。
次の一連の写真の1から3枚目は、3/20の市内観光の時の写真です。
(後半の5枚は能登金剛の写真ですね)
この写真の撮影場所を特定し、現在と比較したいと思います。
3枚目は簡単。
兼六園と金沢城公園を結ぶ「石川橋」ですね。
手摺の支柱に名前が刻まれているから、分かって当然です。
現在の姿は次、昔は欠損していたランプが立っています。
分からなかったのが写真2枚目の、次の立派な門でした。
両側の塀のなまこ壁から、これは金沢城公園のどこかと思い探してみましたが、
時間的な制約もあり発見できず、諦めました。
東京へ戻ってから、ネットで画像検索などをかけてみて、見つけました。
(出典:金沢旅物語)
兼六園に隣接する「成巽閣」の百万石通り側の出入り口ですね。
(ここは加賀藩13代藩主前田斉泰の母の隠居所で、
「巽御殿」と呼ばれていたそうです)
とすれば次の1枚目の写真は、
この成巽閣の庭園をバックにしたポートレートのはず。
時間的に、そんなにあちこち動き回ったはずはありませんから。
これについては、なかなか該当しそうな庭園風景が見つからなかったのですが、
思わぬところで見つけました。
成巽閣庭園についての毎日新聞の地方版の記事
左下にさきほどの門が写っています。
そして、この写真の中央に円形の植え込みがありますが、
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