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奥能登の窓岩:50年前の姿2024年01月05日

奥能登の名所の一つに曽々木海岸の「窓岩」があります。
海面から聳り立つ岩の中央部にポッカリ穴が開いていて、それが「窓」のように見えます。
この窓岩が今年の正月の能登半島地震で崩落し、窓が無くなってしまったそうです。
私は今からちょうど50年前の1974年の3月21日に訪れていました。
その日の旅程の最後「曽々木館」という旅館にチェックインし、夕暮れまでの一時、曽々木海岸を散歩していて立ち寄りました。写真が2枚残っていました。
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奥能登は東京からは遠く、いつか再訪しようと思いつつ叶わず、いつの間にか半世紀が過ぎていました。
次の2枚も夕刻の曽々木海岸の写真です。
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補われた18年前の記憶2021年04月30日

2003年の夏休みに、日光の中禅寺湖へ遊びに出掛けたことがあります。
その時の記録写真が次。
01EX-S1デジカメ
この旅行に携行したカメラは「カシオ CASIO EXILIM EX-S1」。
カードサイズのデジカメ、今で言えばおもちゃみたいなカメラですから、
撮影枚数が17枚と少ないのも「あまり気合が入ってなかったのかな」と合点していました。
ところが、先日、未スキャンのフィルムとプリントが数本分見つかり、
その中に、この日光旅行のものとおぼしき一本もありました。
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年代的には「ミノルタ Minolta α-7700i」が使用機材のはず。
早速スキャニング。
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そして現像。
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色味調整をやっているうちに、当時の記憶も甦ってきます。
簡易な旅程を手帳にメモしていましたので、
フィルムに残されていた日付と照らし合わせれば、
全部の写真について、ほぼ適正な撮影時間が推定できます。
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そして、元々あったデジタル写真と、次のように合体。
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こうして、37枚の写真を補填して、完璧な記録となりました。
めでたしめでたし。

46年前の金沢市庁舎2020年12月19日

前回)からの続きです。

46年前の金沢市内観光の写真のうち、
46年前の金沢市内観光
最後まで撮影場所が特定できずにいたのは次の4枚目でした。
46年前の金沢市庁舎
バスのロータリーっぽい風景から、駅前のようでもあります。
人物奥の建物はきっと名建築でしょう。
なかなかの風情です。

結局、答えは前回紹介した
金沢絵葉書」にありました。
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金沢市役所、とあります。
明らかに私の写真と同一建物です。
では、この建物はどこに建っていたのか?
そこで、現在の金沢市役所の場所の1975年の航空写真を当たってみました。
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画面中心部に、それっぽい屋根が写っているでしょう?
間違いないですね。
現在の地図に落とし込んで見ると、次の通りです。
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前回の石川四高との位置関係も納得です。
その石川四高の東側から、昔の市庁舎を撮影したことになります。
撮影場所の現在は、カエデの紅葉の真っ最中。
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ここから、正確に昔と同じ撮影方向でパチリ。
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写真左側に写っているカエデの木、
1974年当時は細々とした木だったのが、今は立派な大木になりました。
そして、当時の市庁舎は完全に跡形もなく、広場になっていました。
金沢市庁舎前広場
「金沢市庁舎前広場」と呼ばれ、
市民が描く白いキャンバス、との位置付けだそうですが、
私としては、広場よりも、昔の建物が残っていて欲しかったな。

ちなみに、この名建築の取り壊しについては、次の
金沢市役所の建設年と場所」に詳述されていたので、
以下にその一部を引用します。

○取り壊しの年・場所について
『20世紀の照像 石川写真百年・追想の図譜』(改編版)(118388152)p.58「金沢市役所」によると、大正11(1922)年に完成した庁舎は昭和54(1979)年に取り壊された。
(途中省略)
北國新聞(朝刊)昭和54(1979)年8月21日16面記事「懐かしの市役所旧庁舎百分の一の模型完成」によると、旧庁舎は大正12(1923)年2月の建設で(大正11年の誤りか)、木骨コンクリート一部三階建て延べ1,695平方メートル。屋上のサイレン塔とこれをはさんだドームが特徴で、近世ルネサンス様式を採り入れた、当時では最先端をゆく建物だった。その後の増築で一時、延べ面積3,728平方メートルになったが、昭和46(1971)年7月に一部解体され、ことし6月18日から7月15日にかけ解体撤去されたさいは述べ2,335平方メートルだった。

金沢旅行(終り)

46年前の石川四高2020年12月11日

前回)からの続きです。

46年前の金沢市内観光の写真を順番に並べると次のようになります。
46年前の金沢市内観光
このうち撮影場所が既に特定できた分は、
1・2枚目:長町武家屋敷跡
5・6枚目:成巽閣
7枚目:石川橋
です。
残りの3・4枚目について、
今回の旅行の前後に調査・確認した内容を以下に纏めてみました。

3枚目のレンガの建物の前に佇む46年前の私。
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当然、由緒ある建物であろうと、ガイドブック等を調べてみると、
金沢市内に残るレンガ造りの建物のうち、
「石川四高」の可能性が高そうでした。
地図で確認すると次の場所です。
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市内観光2日目の午前中、香林坊までバスで行き、
そこから徒歩で向かうと、前方に見えてきました。
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それっぽいですね。
この建物、Wikiによれば、
1887年(明治20年)石川県専門学校を前身として第四高等中学校が設立
1894年(明治27年)第四高等学校に改称
されたものだそうです。
46年前と同じ方向から写真を撮ってみました。
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二階のアーチ窓の楣部分の意匠が同じツートンですね。
また、良くみると、
私の左側のヒマラヤスギ、何となく雰囲気が昔と同じです。
ということで、一件落着。

なお、事後調査の過程で、金沢の昔の絵葉書を集めたサイトを見つけました。
金沢絵葉書」です。
そこに、更に古い時代の石川四高の姿がありました。
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続く

46年前の長町武家屋敷2020年12月07日

前回)からの続きです。

昔の金沢市内観光の写真に次のようなものがありました。
46年前の金沢長町武家屋敷
これがどの辺の写真なのかは、すぐ推測できますね。
観光スポットとして有名な「長町武家屋敷跡」に違いありません。
金沢城公園から500mほど西に行ったところがそのエリアです。
そして見つけたのが次の場所です。
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道の曲がり具合とか雰囲気とか塀の意匠とか46年前と同じです。
この撮影地点は次の地図の[1]番です。
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やはりこの近くの[2]番で撮った写真もありました。
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この門もすぐ分かりましたよ。そして撮影。
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まあ、景観を保存しようとしているエリアだから、46年前も今も、
そして46年後もきっと同じ風景が見られるはずです。
ただし樹木とか自然のものは、ちょっと変化してますね、人間も。

続く