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・目白の風景 今昔:目次
・吉祥寺の風景 今昔:目次
・昔と今の写真(番外編):目次
・地中海バブル旅行etc.:目次
・旅のつれづれ:目次
・母のアルバム:目次
・目白ジオラマ鉄道模型:目次
・すべてのカメラに名前がある:目次
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祖母の名はフク富久婦久 ― 2017年03月13日
母が亡くなって早や7年、
住む人のいなくなった家を手放す事になりました。
今度は遺品の整理というよりも、一切合切の処分です。
そんな処分品の中から、また現れた古い写真の束。
住む人のいなくなった家を手放す事になりました。
今度は遺品の整理というよりも、一切合切の処分です。
そんな処分品の中から、また現れた古い写真の束。
どうしたものかと悩みました。
写真の一枚一枚が人生の記念碑だった時代には、
このような遺品の写真は捨てるに忍びず、
次の人へ、そしてまた次の人へと、
人が亡くなるたびに、遺族の誰かへと引き継がれていったのでしょう。
だから、古い写真の束の中は、
元々の所有者が誰なのかさえ分からなくなった写真ばかり、のはず。
そこで私は考えました。
「私の見知った顔が写っている写真だけを残そう」と。
感覚的には、それで十分の一くらいに減らせそうです。
先日までは、その存在さえ知らなかった写真ですから、
あるいは、何も見ずに「えいやっ!」と捨てても良いくらいです。
ところが、無駄に残っていた訳では無い、ということなのか、
先日は「陽明門の下で記念写真を撮る祖父」を見つけ、
祖父の顔を初めてきちんと認識することができたし、
今回は、次のような写真も見つけました。
写真の一枚一枚が人生の記念碑だった時代には、
このような遺品の写真は捨てるに忍びず、
次の人へ、そしてまた次の人へと、
人が亡くなるたびに、遺族の誰かへと引き継がれていったのでしょう。
だから、古い写真の束の中は、
元々の所有者が誰なのかさえ分からなくなった写真ばかり、のはず。
そこで私は考えました。
「私の見知った顔が写っている写真だけを残そう」と。
感覚的には、それで十分の一くらいに減らせそうです。
先日までは、その存在さえ知らなかった写真ですから、
あるいは、何も見ずに「えいやっ!」と捨てても良いくらいです。
ところが、無駄に残っていた訳では無い、ということなのか、
先日は「陽明門の下で記念写真を撮る祖父」を見つけ、
祖父の顔を初めてきちんと認識することができたし、
今回は、次のような写真も見つけました。
父のアルバムに貼ってあった一枚の写真と同じものです。
(その写真のことは「108年前の祖母に会う」に書きました)
赤子を抱いた女性は、私の全然知らない顔立ちなのですが、
私に「この人は実の祖母!」と確信させた、不思議な力を発する写真、
それと同じものを見つけたのです。
そして、一応裏面を確認してみると、次の書き込みがありました。
(その写真のことは「108年前の祖母に会う」に書きました)
赤子を抱いた女性は、私の全然知らない顔立ちなのですが、
私に「この人は実の祖母!」と確信させた、不思議な力を発する写真、
それと同じものを見つけたのです。
そして、一応裏面を確認してみると、次の書き込みがありました。
このように、写っている5名全員の名前が記され、
父の名前の隣の文字は「富久」と読めます。
父の戸籍謄本から、
その父は狷造・母はフクという名前であることは知っていたので、
この女性が私の父方の実祖母であることは、
単なる確信ではなく、正真正銘の「事実」になりました。
撮影年も、もちろん予想通りの明治40年(1907年)でした。
おまけに、このフク・富久さんの写真は他にも見つかりました。
父の名前の隣の文字は「富久」と読めます。
父の戸籍謄本から、
その父は狷造・母はフクという名前であることは知っていたので、
この女性が私の父方の実祖母であることは、
単なる確信ではなく、正真正銘の「事実」になりました。
撮影年も、もちろん予想通りの明治40年(1907年)でした。
おまけに、このフク・富久さんの写真は他にも見つかりました。
出てくるものですね、100年の時を経て。
その中の次の一枚は、二歳になった父を抱いた写真です。
その中の次の一枚は、二歳になった父を抱いた写真です。
この裏では、今度は「ふく子」と自称していました。
昔は女性の名前について、戸籍上は単純なカタカナだけなのを、
「子」を付けたり、適当な漢字を当てたりしていた、
というのは本当なんですね。
とにかく、こんな発見がありながら、写真を分別していきました。
そして、知らない顔ばかりの写真は、当然、廃棄側に分類するのですが、
次の写真でふと手が止まってしまいました。
「子」を付けたり、適当な漢字を当てたりしていた、
というのは本当なんですね。
とにかく、こんな発見がありながら、写真を分別していきました。
そして、知らない顔ばかりの写真は、当然、廃棄側に分類するのですが、
次の写真でふと手が止まってしまいました。
知らない顔というよりも、どの顔も退色して、誰だか分かりません。
撮影した写真館は、東京本郷区弓町二丁目(今の文京区本郷二丁目)と、
宇都宮へ嫁いだ祖母には縁のなさそうな場所です。
でも写真の古さ加減から、
ひょっとしたら祖母の写っている一枚かもしれないと思い
裏面に「富久」の文字を探しました。
撮影した写真館は、東京本郷区弓町二丁目(今の文京区本郷二丁目)と、
宇都宮へ嫁いだ祖母には縁のなさそうな場所です。
でも写真の古さ加減から、
ひょっとしたら祖母の写っている一枚かもしれないと思い
裏面に「富久」の文字を探しました。
左から二人目の名前に「富」の字はありますが、
「下條富志?子」としか読めません。
別人でしょう。
捨てそうになって、でも、左奥の人物の雰囲気に、
捨ててはいけない、という何かを感じ、
念のため、Photoshopで目一杯調整してみると、こうなりました。
「下條富志?子」としか読めません。
別人でしょう。
捨てそうになって、でも、左奥の人物の雰囲気に、
捨ててはいけない、という何かを感じ、
念のため、Photoshopで目一杯調整してみると、こうなりました。
気になった女性の顔は、祖母のフクに、とても良く似ています。
「そうなのかな、でも、名前が無いしな〜」と思いつつ、
裏面を再度確認すると、発見!
「野口婦久子」とあるではありませんか。
しかも「野口」は祖母の旧姓だった、と気づきました。
「富」の漢字にこだわり過ぎて、こちらを見逃してしまったのですね。
この写真の撮影は明治三十八年とありますから父誕生の二年前です。
ということは、まだ多分十代の、嫁入り前のフクさんですね。
その若く美しい姿を、
112年後の私に何としても見せたかったのだ、としか思えません。
それにしても、このフクさん、
一体いくつの「ふく」を使い分けていたことやら...
「そうなのかな、でも、名前が無いしな〜」と思いつつ、
裏面を再度確認すると、発見!
「野口婦久子」とあるではありませんか。
しかも「野口」は祖母の旧姓だった、と気づきました。
「富」の漢字にこだわり過ぎて、こちらを見逃してしまったのですね。
この写真の撮影は明治三十八年とありますから父誕生の二年前です。
ということは、まだ多分十代の、嫁入り前のフクさんですね。
その若く美しい姿を、
112年後の私に何としても見せたかったのだ、としか思えません。
それにしても、このフクさん、
一体いくつの「ふく」を使い分けていたことやら...
日光東照宮陽明門で111年前の祖父に会う ― 2017年03月11日
陽明門の大修理が済んで、昨日から一般公開されたそうです。
東京新聞の夕刊に載っていました。
東京新聞の夕刊に載っていました。
実は、つい10日ほど前、昔の写真の束からこんなものを見つけました。
日光「東照宮陽明門」の前で畏まる祖父(写真右側の人物)の写真です。
私は最近まで実の祖父母4人の顔を知りませんでした。
ところが、幸いな事に、母の遺品の写真を整理するなかで、
二人の祖母の写真と思われるものは見つけました。
それでも、二人の祖父については相変わらず不明でした。
それが半月ほど前に、実家の家財道具等を処分していた姉から、
「また、写真があったよ」と、三袋分ほどの写真を託され、
その中に、この陽明門の一枚がありました。
場所と人物が判明したのは、写真の裏に次の説明文があったからです。
場所と人物が判明したのは、写真の裏に次の説明文があったからです。
これを読むと明治39年に、祖父(狷造)は奉幣使の随行員として、
日光二荒山神社の例祭(今でもやっている)に参列し、
ついでに東照宮にも立ち寄ったのですね。
今から111年前、西暦1906年のことです。
祖父は、今で言う所の県の役人だった事になります。
それも初めて知りました。
祖父の顔と名前が、ようやく結びつきました。
せっかくですので、この写真を往時の姿に蘇らせるべく、
Photoshopで色々手を加えてみました。
日光二荒山神社の例祭(今でもやっている)に参列し、
ついでに東照宮にも立ち寄ったのですね。
今から111年前、西暦1906年のことです。
祖父は、今で言う所の県の役人だった事になります。
それも初めて知りました。
祖父の顔と名前が、ようやく結びつきました。
せっかくですので、この写真を往時の姿に蘇らせるべく、
Photoshopで色々手を加えてみました。
こうして、人物の顔も鮮明になってくると、
私の祖父は、なかなか凛々しい顔立ちであるように見えます。
その遺伝子は、ちゃんと伝わっているのかな?
ちなみに日光東照宮は実家と同じ県内ということもあり、
何回も訪れたことがあります。
東京で暮らすようになってからも、
「鳴き龍」のレポートを夏休みの宿題とした次女のために、
わざわざ東照宮まで連れて行ったこともありました。
その時の写真もありますね。
私の祖父は、なかなか凛々しい顔立ちであるように見えます。
その遺伝子は、ちゃんと伝わっているのかな?
ちなみに日光東照宮は実家と同じ県内ということもあり、
何回も訪れたことがあります。
東京で暮らすようになってからも、
「鳴き龍」のレポートを夏休みの宿題とした次女のために、
わざわざ東照宮まで連れて行ったこともありました。
その時の写真もありますね。
奇しくも、最初の記事写真と同じアングルからの撮影ですが、
こちらはデート表示の通り、1995年8月11日のものです。
まさに夏休み真っ最中。
そして、その日の東照宮で撮った次のような写真もありました。
こちらはデート表示の通り、1995年8月11日のものです。
まさに夏休み真っ最中。
そして、その日の東照宮で撮った次のような写真もありました。
「見ざる、聞かざる、言わざる」の「三猿の彫刻」の前で、
「見ざる」のポーズをとっている私です。
陽明門の前で衣冠束帯にて畏まる祖父に対して、
綿パンTシャツ姿で猿の真似をしている私って、
いくら時代が違うとはいえ、大いに疑問ありですね。
「見ざる」のポーズをとっている私です。
陽明門の前で衣冠束帯にて畏まる祖父に対して、
綿パンTシャツ姿で猿の真似をしている私って、
いくら時代が違うとはいえ、大いに疑問ありですね。
108年前の祖母に会う ― 2015年07月06日
母の遺品のアルバムは二冊ありました。
現在、スキャナでデジタル化しているところです。
その二冊はどちらも写真の多くが元の台紙から剥がれ落ち、
バラバラになった状態でした。
その中で、何故か特にしっかり貼り付いた一枚がありました。
現在、スキャナでデジタル化しているところです。
その二冊はどちらも写真の多くが元の台紙から剥がれ落ち、
バラバラになった状態でした。
その中で、何故か特にしっかり貼り付いた一枚がありました。
良く見ると写真と台紙の間にもう一枚の黒紙が見えます。
これは、全く別のアルバムに貼られていたものを、
写真を傷めないように台紙ごと切り抜いて、
このアルバムのこのページに移し替えたもののようです。
他のページに残った何枚かの写真から判断して、
このアルバムの元々の持主は私の父と思われました。
ということは、父が亡くなった後、
母が自分のアルバムと一緒に、そのまま保管していたのでしょう。
いずれにせよ、剥がれ落ちた写真も、台紙に残っている写真も、
ほとんどが私の生まれる前のものなので、
そこに写っている人たちは、見たこともない知らない人ばかりでした。
そんな中で、あらためてこの一枚に眼を落とした私は、
突然、「この女性は私の祖母だ!」という確信に捕われました。
右から二人目の若い女性のことです。
スキャナで取込んでみると次のようです。
経年変化で傷んでいますが、写真館で撮影した何かの記念写真ですね。
これは、全く別のアルバムに貼られていたものを、
写真を傷めないように台紙ごと切り抜いて、
このアルバムのこのページに移し替えたもののようです。
他のページに残った何枚かの写真から判断して、
このアルバムの元々の持主は私の父と思われました。
ということは、父が亡くなった後、
母が自分のアルバムと一緒に、そのまま保管していたのでしょう。
いずれにせよ、剥がれ落ちた写真も、台紙に残っている写真も、
ほとんどが私の生まれる前のものなので、
そこに写っている人たちは、見たこともない知らない人ばかりでした。
そんな中で、あらためてこの一枚に眼を落とした私は、
突然、「この女性は私の祖母だ!」という確信に捕われました。
右から二人目の若い女性のことです。
スキャナで取込んでみると次のようです。
経年変化で傷んでいますが、写真館で撮影した何かの記念写真ですね。
私と同じ屋根の下で暮らしていた祖母には、
(「育ての祖母?」とでも言うのかな)
休日に映画やデパートに連れて行ってもらったりしていました。
私が生まれたときから一緒にいた祖母なので、
本当の祖母は、実は、別の人で早くに亡くなったのだ、と知っても、
その実の祖母なる女性の人物像とかには全く興味を持ちませんでした。
一つには、その女性の写真も見たことがなく、
何のイメージも持てなかったからだと思います。
ところが、どうした事なのか、やはり血の繋がりは何よりも強いのか、
これと言った傍証はありませんが、
この写真の中央で赤児を抱いて椅子に座った女性、
この方が私の実の祖母であることは、
突然、疑う余地のない真実になってしまいました。
しいて理由を探せば、私の息子の顔がこの女性に似ているような...
そうだとすると、この赤児は私の父、そのお宮参りか何かの記念写真でしょう。
撮影されたのは、1907年の三月頃になるはず。
女性の年齢は不明ですが、見たところ十代後半のようです。
名前は、「フク」、地味な名前ですね。
そして、これから四人の女の子を立て続けに産んだ後、若くして亡くなりました。
これ以外には彼女が写っている写真はありません。
そう言うわけで、この写真は非常に大切な一枚になりました。
ひょっとしたら、「フク」さんも生前にアルバムを持っていて、
そこに初子を抱く自分のこの写真を貼っていたのかも知れません。
そして、彼女が亡くなった後で、
何らかの理由でそのアルバムが処分されることになった時、
私の父が、幼児の自分が母に抱かれて写っているこの一枚だけを、
台紙ごと切り抜いて移し替えたのかも知れません。
せっかく写真館で撮った写真のようですから、
もう少し体裁を整えることにしました。
Photoshopに取込んで調整しました。
先の写真と比べると、随分と奇麗にそれらしくなったでしょう?
若い「フク」さんの顔は、特に念入りに補正・調整しました。
次の写真で、左が補正前、右が補正後です。
若い「フク」さんの顔は、特に念入りに補正・調整しました。
次の写真で、左が補正前、右が補正後です。
スポッティングでごみ取りをし、コントラストも少し上げました。
知的で意志の強そうな凛々しい表情になりました。
それと、この比較写真では、
補正後の写真を「2°」だけ時計方向に回転させました。
というのは、全体写真でも分かる通り、
「フク」さんは右に傾く癖があるらしく、
右肩が左肩よりかなり下がっていたからです。
これって、実は、私と同じ癖なんですね。
結局、「100年前の祖母に会う」と合わせて、
私は二人の実の祖母の顔を、やっと最近知ることになりました。
知的で意志の強そうな凛々しい表情になりました。
それと、この比較写真では、
補正後の写真を「2°」だけ時計方向に回転させました。
というのは、全体写真でも分かる通り、
「フク」さんは右に傾く癖があるらしく、
右肩が左肩よりかなり下がっていたからです。
これって、実は、私と同じ癖なんですね。
結局、「100年前の祖母に会う」と合わせて、
私は二人の実の祖母の顔を、やっと最近知ることになりました。
教育勅語のおうち「奉安殿」 ― 2015年04月07日
母のアルバムから次のような記念写真が出てきました。
この写真の最前列に、国民服を着てゲートルを巻いた父が写っています。
このような畏まった集合写真は他になく、珍しいものなのです。
「何の写真だろうね?」と女房に問いかけると、
「先生たちの集合写真ね。皆、知性的で生真面目な顔をしているし、
それに女性が多いから」
との返事でした。
確かに、他の職業では女性の比率はもっと低そうです。
皆、緊張した面持ちでいるのも、教育者の生真面目さのせいでしょうか。
では、何の記念写真かな?と疑問が湧きました。
写真には何の添書きも裏書きもなく、教えてくれそうな人は皆んな既に亡くなっています。
幾つか推測してみました。
1.採用記念(先生として赴任した記念)
でも、それにふさわしい若くフレッシュな人物は見当たりません。
また、それなら4月でしょうが、写真の背景の樹木は落葉し、季節は秋っぽいです。
2.出兵記念(これから戦地に赴く記念)
父の義兄弟には戦死した方が数名いましたが、
父自身は教育者として兵役を免れていましたからこれも当たりません。
白丸で囲われた取込み写真がヒントになるでしょうか。
左の丸は、校旗でしょうね。
では、右の丸は何かな?
百葉箱のようですが、まさか百葉箱の写真をわざわざここに取込まないですよね。
そして、この箱が何かは、
実はアルバムの別の頁にしっかり貼付けてあった次の写真で判明しました。
このような畏まった集合写真は他になく、珍しいものなのです。
「何の写真だろうね?」と女房に問いかけると、
「先生たちの集合写真ね。皆、知性的で生真面目な顔をしているし、
それに女性が多いから」
との返事でした。
確かに、他の職業では女性の比率はもっと低そうです。
皆、緊張した面持ちでいるのも、教育者の生真面目さのせいでしょうか。
では、何の記念写真かな?と疑問が湧きました。
写真には何の添書きも裏書きもなく、教えてくれそうな人は皆んな既に亡くなっています。
幾つか推測してみました。
1.採用記念(先生として赴任した記念)
でも、それにふさわしい若くフレッシュな人物は見当たりません。
また、それなら4月でしょうが、写真の背景の樹木は落葉し、季節は秋っぽいです。
2.出兵記念(これから戦地に赴く記念)
父の義兄弟には戦死した方が数名いましたが、
父自身は教育者として兵役を免れていましたからこれも当たりません。
白丸で囲われた取込み写真がヒントになるでしょうか。
左の丸は、校旗でしょうね。
では、右の丸は何かな?
百葉箱のようですが、まさか百葉箱の写真をわざわざここに取込まないですよね。
そして、この箱が何かは、
実はアルバムの別の頁にしっかり貼付けてあった次の写真で判明しました。
この箱のような建物、竹柵と樹木に囲われて立派な「おうち」のようです。
タイトルに「菊澤村尋常高等小学東校奉安殿」と書いてあります。
建物の雰囲気が、最初の写真の白丸の建物とそっくりでしょう?
扉部分を拡大してみると、菊の御紋の入り方も含めてほとんど同じ意匠です。
扉が平側に付いているか、妻側に付いているかの違いだけです。
(ちなみに、伊勢神宮は平入り、出雲大社は妻入りですね)
「奉安殿」とは、天皇皇后の御真影と教育勅語を納めた建物だそうです。
1930年代頃に、多くの小学校に奉安殿が造られたとのこと。
この二枚の写真は、いずれもその頃に撮影されたものなのでしょう。
写真に写っている父の年齢から考えても妥当な年代です。
そして、集合写真の中央奥の石碑の文字を眺めてみました。
『楠公(奉?)??)』と彫られているようです。
とすれば、これは、大楠公として皇国忠臣の鑑と崇められた「楠木正成」の石碑でしょう。
実際、1935年には大楠公600年祭が執り行われ、1940年には全国からの募金により「奉建塔(楠公六百年記念塔)」なるものが建立されたとwikiにありました。
これらの知識を総動員して、私は最初の集合写真を次のように読み解きました。
1940年頃に、父の勤務する学校に「楠公奉献碑」が建立され、
中央官庁の役人か県知事か偉い方をお招きして式典を行い記念写真を撮った。
背広姿の男性は、お役人と校長・教頭で、一般の男の先生は国民服で列席した。
記念写真には、教育勅語を納めた奉安殿も、併せて載せることとした。
そう考えると、先生たちが緊張の面持ちでいることも理解できるでしょう?
さて、アルバムには、畏まっていない次のような集合写真もありました。
タイトルに「菊澤村尋常高等小学東校奉安殿」と書いてあります。
建物の雰囲気が、最初の写真の白丸の建物とそっくりでしょう?
扉部分を拡大してみると、菊の御紋の入り方も含めてほとんど同じ意匠です。
扉が平側に付いているか、妻側に付いているかの違いだけです。
(ちなみに、伊勢神宮は平入り、出雲大社は妻入りですね)
「奉安殿」とは、天皇皇后の御真影と教育勅語を納めた建物だそうです。
1930年代頃に、多くの小学校に奉安殿が造られたとのこと。
この二枚の写真は、いずれもその頃に撮影されたものなのでしょう。
写真に写っている父の年齢から考えても妥当な年代です。
そして、集合写真の中央奥の石碑の文字を眺めてみました。
『楠公(奉?)??)』と彫られているようです。
とすれば、これは、大楠公として皇国忠臣の鑑と崇められた「楠木正成」の石碑でしょう。
実際、1935年には大楠公600年祭が執り行われ、1940年には全国からの募金により「奉建塔(楠公六百年記念塔)」なるものが建立されたとwikiにありました。
これらの知識を総動員して、私は最初の集合写真を次のように読み解きました。
1940年頃に、父の勤務する学校に「楠公奉献碑」が建立され、
中央官庁の役人か県知事か偉い方をお招きして式典を行い記念写真を撮った。
背広姿の男性は、お役人と校長・教頭で、一般の男の先生は国民服で列席した。
記念写真には、教育勅語を納めた奉安殿も、併せて載せることとした。
そう考えると、先生たちが緊張の面持ちでいることも理解できるでしょう?
さて、アルバムには、畏まっていない次のような集合写真もありました。
これも、タイトルや説明書きがなく、何の写真かは推測するしかありません。
多分その当時に父が勤務していた学校の先生方との集合写真と思われます。
皆さんの服装や、父の老け具合などから、これは戦後まもなく撮られた写真のようです。
場所は、背景に杉並木らしきものが見えるので、「日光の東照宮近く」でしょう。
きっと、修学旅行か研修旅行の一コマだと思います。
国民服でなく開襟の半袖シャツを着た父も、にこやかに微笑んでいます。
多分その当時に父が勤務していた学校の先生方との集合写真と思われます。
皆さんの服装や、父の老け具合などから、これは戦後まもなく撮られた写真のようです。
場所は、背景に杉並木らしきものが見えるので、「日光の東照宮近く」でしょう。
きっと、修学旅行か研修旅行の一コマだと思います。
国民服でなく開襟の半袖シャツを着た父も、にこやかに微笑んでいます。
上野公園の桜(2)娑羅双樹の花の色 ― 2015年03月31日
ここの中庭が小さめで好もしいです。
下の写真に写っているとおり、人間的なスケールで、寛げそうな空間でしょう?
子供たちが楽しそうに遊び回っていましたよ。
中庭の奥に薄いピンクの枝垂れ桜があり、
その手前には娑羅双樹(正確には夏椿か?)が写っています。
その手前には娑羅双樹(正確には夏椿か?)が写っています。
「平家物語」の冒頭に
娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす
とうたわれている例の樹木ですね。
「こんな所に娑羅双樹があるよ」と言う私に、
「あなたのお母さんの家にもありましたよ、大切に育てていらしたでしょう」と女房の返事。
「あれ、そうだっけ?」と記憶がかなりあやふやな私。
理系の私は、カメラの種類には敏感でも、草木にはそれほど興味がありません。
でも、少し気になったので先日撮った母の家の写真を見てみました。
写真中央、やや下目に切り株が見えます。これかも。
独り住まいだった母が亡くなってから空き家となり数年、雑草も伸び放題だった庭に、
最近、職人が入って草刈りをしたのか、ちょっとこざっぱりした感じになっていました。
庭の整理ついでに、傷んだ娑羅双樹を伐採したのかも知れません。
隣の山茶花が勢い良く育っているのとは違って、
手入れする人がいないと駄目になってしまう樹木だったのでしょうか。
更に気になって、ずーっと昔の写真を探してみた所、こんな写真が出てきました。
24年前の夏、母の家の新築直後のものです。
独り住まいだった母が亡くなってから空き家となり数年、雑草も伸び放題だった庭に、
最近、職人が入って草刈りをしたのか、ちょっとこざっぱりした感じになっていました。
庭の整理ついでに、傷んだ娑羅双樹を伐採したのかも知れません。
隣の山茶花が勢い良く育っているのとは違って、
手入れする人がいないと駄目になってしまう樹木だったのでしょうか。
更に気になって、ずーっと昔の写真を探してみた所、こんな写真が出てきました。
24年前の夏、母の家の新築直後のものです。
父が亡くなり子供たちも独立し、母一人では持て余す古い家を取り壊しました。
そして、独り住まいにふさわしい小さめの住居を建てたのです。
お庭も小さめで、母に取って心地よい庭だったのでしょう。
女房の記憶通り、その中心に娑羅双樹がありました。
息子がもぐっている若木がそれですね。
まだ植えたばかりの若木は、三本の副え木で支えられています。
だんだん思い出してきました。
この日は、墓参りのために子供たちを連れて母の家を訪ねたのでした。
同じフィルムには孫と一緒にVサインをしている母の姿もありました。
そして、独り住まいにふさわしい小さめの住居を建てたのです。
お庭も小さめで、母に取って心地よい庭だったのでしょう。
女房の記憶通り、その中心に娑羅双樹がありました。
息子がもぐっている若木がそれですね。
まだ植えたばかりの若木は、三本の副え木で支えられています。
だんだん思い出してきました。
この日は、墓参りのために子供たちを連れて母の家を訪ねたのでした。
同じフィルムには孫と一緒にVサインをしている母の姿もありました。
子供たちの脚元には娑羅双樹の葉が影を落としています。
(終り)
(終り)





























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