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長崎旅情(5)軍艦島の喉仏2015年01月12日

前回)からの続きです。

雲仙から長崎市への帰り道、
バスの窓から橘湾を眺めると、今日も天気は良さそうです。
橘湾の眺め

そして長崎駅に着くと、昼前の11時。
当初、お天気が悪そうだったので外していた計画「軍艦島クルーズ」を
復活させることにしました。
島全体が炭坑の街だった軍艦島は、以前から訪れてみたい場所でした。
駅のインフォメーションから海運会社へ電話すると、
午後一時の便に若干の空きがあるとのこと。
早速予約して、タクシーで長崎港ターミナルビルへ。

島への上陸に関する「誓約書」を書いてから乗船券を購入。
ターミナルビルで昼食を取って、出港桟橋へ向かいました。
乗り込む船はこれです。
軍艦島クルーズ船
冬場にもかかわらず、果敢に二階の吹きさらしデッキに着席しました。

出港から40分ほどで軍艦島が見えて来ました。
正式名称は「端島」ですが、本当に軍艦みたいです。
軍艦島

島へ着いて、桟橋から島へ上陸するにはコンクリートのトンネルを潜ります。
島内から見るとこんな感じです。
下の写真の左側にトンネルの出口が写っています。
軍艦島への入口
誓約書を書かせたぐらいだから、どんな危険が待ち受けているのかと期待しましたが、
我々が歩ける範囲は、島の東南側1/3くらい、手摺の内側の安全な範囲内だけでした。
見学者通路
当然と言えば当然。
それでも廃墟と化した建物群には度肝を抜かれます。

ガイドと手話係の女性が解説してくれます。
解説するガイド
それにしても1974年に閉山するまで、
ここで文化的な都市生活が営まれていたとは信じられません。
都市って、打捨てられると僅か40年で完全に荒廃してしまうものなんですね。

ガイドの話で一番興味深かったのが「水の確保」の方策でした。
上の写真の右上の高台、白い灯台の右側にある四角の構造物が「高架水槽」です。
(注:灯台は閉山後に建てられたもので白く新しい)
そして、水槽に向かって、今では赤茶色に錆びた送水管が下から延びています。
この送水管は元を辿れば、下の写真の岸壁に穿たれた取水口を通して、
対岸の三和町の送水施設まで延びていたとのこと。
取水口
実に6,500mもの海底送水管が敷設されていたのですね。
それでも採掘で汚れた体を洗うためには、
炭坑夫たちは三つのお風呂に入る必要があり、
その最初のお風呂は、煤で真っ黒になったそうです。
この洗い方って、屋台のラーメン屋のようですね。

島内の建物のうち、次の写真の仕上工場のように、
原形を一部とどめているものもあります。
仕上工場
でも青空をバックにこれらの建物群を眺めると、
文明の儚さを感じるというか、何か無常観に捕らえられます。

そのせいか、見学を終えた人たちも、皆すこし寡黙になっていました。
帰路は寡黙

次の写真は、帰りの船に乗り込む直前に岸壁を撮影したものです。
桟橋の基礎の残骸
岸壁の前に、今は役割を終えたコンクリート製の基礎が残っていました。
石炭積み出し用の施設や桟橋が載せられていたのでしょう。
基礎の上に釣り人が一人いました。
この人、どうやってここに登ったのかな??

吹きさらしデッキの寒さに懲りて、帰りは一階の船内座席に着席。
クルーズ船は帰路につく前、島の周りを右回り、左回りと二周してくれるので、
さきほどの見学通路からは見られなかった、島の裏側も見ることができます。

その裏側の高台に、次の写真のような奇妙な構造物?がありました。
端島神社の祠
これは、島内にあった「端島神社」の名残だそうです。
乗船時に配られたパンフレットに次のように載っていました。
祠の説明
神殿も拝殿も失われ、なぜか「祠」のみが残っているそうです。

島内に数あるコンクリート構造物群は劣化して崩れ落ち、
木造の建物は風雨にさらされて倒壊し、それなのに
なぜかこんな小さな「祠」が残っているなんて不思議です。
軍艦島を人体に喩えると、この祠は火葬後の「喉仏」のようなものでしょうか?
あっ、でも神社を仏に喩えてはいけませんね。

(終り)