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長崎道踏切と高田架道橋 ― 2012年08月18日
約40年前、上り屋敷から雑司ヶ谷方面へ散歩に行く時には「踏切」と「トンネル」を通りました。下の写真は「高田架道橋」と呼ばれたトンネルです。レンガとコンクリート製の土台の上に鉄骨の橋が架かっているのが分かります。異種構造の僅かな隙間から光が漏れています。この上を西武池袋線が通っていました。
私が目白に戻る直前の2006年春、踏切もトンネルもすっかり姿を変えてしまったことを後で知りました。「長崎道踏切」は廃止され、「高田架道橋」は無機的なコンクリートのトンネルになっていました。
踏切の跡です。ネットフェンス内側の草むらが途切れている所が踏切バーのあった所です。
踏切の跡です。ネットフェンス内側の草むらが途切れている所が踏切バーのあった所です。
フェンス越しに中を覗いてみると線路の向こう側に道が見えます。その道の突き当たりにトンネルがありました。その部分は今では壁になりトンネルは少し左側にずれて造られています。
逆方向から眺めるとこういう状態です。また何時か踏切が再開される時まで昔の形状のままで待機しているかのようです。
踏切の代償として「花のはし」と名付けられた跨線橋ができています。
踏切が無くなったのは残念ですが、開かずの踏切として利用者を嘆かせていたそうですし、代わりに造られたこの跨線橋からは、下の写真のように新宿方面の眺望が楽しめるようになったので、それはそれで良かったのかなと思います。
でも本当に残念なのは高田架道橋の改変です。こんな姿になっていました。
あまりにも機能優先ではありませんか?
1975年の写真で当時の姿を振り返るとこうでした。
1975年の写真で当時の姿を振り返るとこうでした。
右側のレンガと本石の組み合せの存在感が良いです。この前で人物撮影をしたくなるようなシチュエーションです。
このような味のある構造物は東京からなくなってしまうのか、と思ったらまだ残っている所がありました。私は学習院下から大塚駅まで都電を利用することが多いのですが、その大塚駅の都電停留所の脇のガード下に同じ意匠の橋台が残っていました。
このような味のある構造物は東京からなくなってしまうのか、と思ったらまだ残っている所がありました。私は学習院下から大塚駅まで都電を利用することが多いのですが、その大塚駅の都電停留所の脇のガード下に同じ意匠の橋台が残っていました。
コーナーの石の使い方、レンガの積み方が「イギリス積み」であることなど昔の高田架道橋と全く同じ意匠です。きっと当時の鉄道土木の流儀だったのでしょうね。
大鳥神社近くの都電踏切 ― 2012年08月21日
鬼子母神や雑司ヶ谷霊園を散歩している1975年の写真の中に、都電荒川線の踏切の写真がありました。
これを見て、いくつか思うことがあります。
1.遮断機が無い。大変危険である!
2.電車の屋根の上に載ってる集電装置が懐かしい!
(これはビューゲル型と言い俗称は布団たたきです)
1.遮断機が無い。大変危険である!
2.電車の屋根の上に載ってる集電装置が懐かしい!
(これはビューゲル型と言い俗称は布団たたきです)
3.どこの踏切だろう?思い出せない。
1と2はともかく、3の疑問点に付いては簡単にはいきません。この写真の前後に撮影された風景から、これが都電荒川線の「鬼子母神駅」と「雑司ヶ谷駅」の間の踏切であろうと推測されるのですが、わずか500mの両駅間には6カ所もの踏切があり、しかも現在はとても違った風景になっているからです。
注意深く写真を見ると、左端に次の踏切が見えます。距離はおよそ50mほどの近さです。また電車の向こうには樹木群が見えます。
当時の住宅地図と航空写真にて判断した結果、この踏切は大鳥神社の北東の踏切であることがわかりました。同じ所で撮影した写真がもう一枚あります。
1と2はともかく、3の疑問点に付いては簡単にはいきません。この写真の前後に撮影された風景から、これが都電荒川線の「鬼子母神駅」と「雑司ヶ谷駅」の間の踏切であろうと推測されるのですが、わずか500mの両駅間には6カ所もの踏切があり、しかも現在はとても違った風景になっているからです。
注意深く写真を見ると、左端に次の踏切が見えます。距離はおよそ50mほどの近さです。また電車の向こうには樹木群が見えます。
当時の住宅地図と航空写真にて判断した結果、この踏切は大鳥神社の北東の踏切であることがわかりました。同じ所で撮影した写真がもう一枚あります。
写真中央、人物の左側に小さな祠らしきものが写っています。きっと神社の関連なのでしょう。それにしても線路と建物が接近していますね。緩衝地帯はありません。
同じ場所から、2012年の景色を撮影してみました。
同じ場所から、2012年の景色を撮影してみました。
右端に大鳥神社の鳥居が見えます。最近築造されたものです。また、左端に次の踏切が見えます。その踏切から逆向きに同じ鳥居を撮影して見ました。
線路敷と神社の間に昔は何もなかったのに、今では立派な道路ができてしまったことが分かります。遠方には池袋の高層ビルが見えています。
この道路は「環状第5の1号線」という都市計画道路の一部です。池袋駅東のグリーン大通りから南方向へ目白通りまでの約1kmが現在工事中で、完成すると明治通りのバイパスになります。来月の一日から車が通行するようです。
目白通りへの取り付き部も完成しています。
この道路は「環状第5の1号線」という都市計画道路の一部です。池袋駅東のグリーン大通りから南方向へ目白通りまでの約1kmが現在工事中で、完成すると明治通りのバイパスになります。来月の一日から車が通行するようです。
目白通りへの取り付き部も完成しています。
最初は計画道路用地内の民家などが少しずつ立ち退き始め、空き地が増えてくると次第に道路のラインが見えて来て、最後は舗装工事がなされて供用開始となる。実に気の長い話です。
都電荒川線の「鬼子母神駅」から「都電雑司ヶ谷駅」までの区間は、すっぽりとこの幅員30mの道路に含まれています。上の写真に見られる道路が線路敷を両側から挟む形状となってしまいます。
しかし、都電雑司ヶ谷駅の北側は辛うじて計画区間から外れています。そこにはまだこんな風景が残っています。
都電荒川線の「鬼子母神駅」から「都電雑司ヶ谷駅」までの区間は、すっぽりとこの幅員30mの道路に含まれています。上の写真に見られる道路が線路敷を両側から挟む形状となってしまいます。
しかし、都電雑司ヶ谷駅の北側は辛うじて計画区間から外れています。そこにはまだこんな風景が残っています。
左に見えるのが駅のホームです。右側の家なんて線路に向かって玄関と門扉があります。この家の方が都電に乗る時は線路敷を歩きたくなるでしょうね。そのせいか、写真中央下に『軌道内通行禁止。あるかない、せんろは電車がとおる道』と注意書きがあります。何か笑えます。
実はこの区間にも都市計画道路「補助81号線」の計画があります。でも両側の民家などが接収されて道路が築造されるのはずっと先の事でしょうから、しばらくはこの景色が楽しめるはずです。
千登世橋と都電荒川線 ― 2012年08月23日
大鳥神社近くの都電沿線の風景は、都市計画道路(明治通りのバイパス)の工事のため驚くほど様変わりしていました。
一方、その工事区間の南端ではちょっと面白くて昔懐かしい風景が見られます。明治通りが目白通りの下を通過している千登世橋で、都電も目白通りの下へ潜って行くのです。37年前のその様子です。鬼子母神駅から学習院下駅へ向かう途中です。電車の後ろ向きの景色を撮っているので、これは潜り始めたところです。
一方、その工事区間の南端ではちょっと面白くて昔懐かしい風景が見られます。明治通りが目白通りの下を通過している千登世橋で、都電も目白通りの下へ潜って行くのです。37年前のその様子です。鬼子母神駅から学習院下駅へ向かう途中です。電車の後ろ向きの景色を撮っているので、これは潜り始めたところです。
2012年の様子を同じ場所で撮影してみました。
都市交通の骨格と言うか、道路とか線路の基本的な位置関係はそう簡単には変えられないことが理解できます。敢えて景色上変わった点を見つけるとすれば、次の二点でしょうか。
・バイパス工事に関わる部分の擁壁がコンクリート壁になっている
・架線柱が鉄骨トラス組立柱からありきたりの電柱になっている
やや風情が失われているものの空間のダイナミックさは変わっていません。
・バイパス工事に関わる部分の擁壁がコンクリート壁になっている
・架線柱が鉄骨トラス組立柱からありきたりの電柱になっている
やや風情が失われているものの空間のダイナミックさは変わっていません。
更に南下した橋の下の様子です。昔の写真。
今の状況。
更に学習院下駅に近づくと線路西側に階段が見えてきます。下の昔の写真で左端に写っています。その階段の左が「千登世橋」で明治通りを跨いでいます。階段の右側の橋(線路を跨いでいる橋)は正確には「千登世小橋」と呼び分けているそうです。
今の状況。階段が同じように見えています。緑が多く、なかなか良い風景ですね。
ついでにもう一枚、学習院下駅に到着する直前の現代の写真です。ここでは何故か架線柱が昔のままの「鉄骨トラス組立柱」です。石積みの擁壁と相まって、昔へタイムスリップしたような気分にさせてくれます。
「路面電車」とひとくくりにされる都電ですが、時には「道路面」を離れて下へもぐったり、ある時は若干高架になってみたり楽しませてくれます。
武家屋敷から銀行社宅へ ― 2012年08月29日
鬼子母神から雑司ヶ谷周辺を散歩した1975年の写真の中に、場所不明の切り通しの坂道の写真がありました。
左側の石垣と右側の擁壁&万代塀に挟まれ、また両側からせり出した樹木の枝によって日光は遮られ、昼間でも薄暗い感じのする坂道です。
この写真の撮影場所は簡単には見つかりませんでした。当時の記憶も失われていたため、結局この周辺の坂道をしらみつぶしに見て回るしか確定する方法はありませんでした。
そして判明した場所が下の写真です。雑司ヶ谷霊園に隣接する日蓮宗清立院の南側の道です。(みたけざか「御嶽坂」と呼ぶらしい)
この写真の撮影場所は簡単には見つかりませんでした。当時の記憶も失われていたため、結局この周辺の坂道をしらみつぶしに見て回るしか確定する方法はありませんでした。
そして判明した場所が下の写真です。雑司ヶ谷霊園に隣接する日蓮宗清立院の南側の道です。(みたけざか「御嶽坂」と呼ぶらしい)
左側の清立院の石垣こそ昔のままですが、空は開けこの日は天気も良かったせいか閉鎖的どころか寧ろ明るく伸びやかな坂道に変身していました。
右側の建物は「南池袋ハイツ」というマンションでした。これを新築する時に、地盤を切り崩して低くし、敷地の一部を歩道として提供したのでしょう。緑も多いし歩いていて楽しくなりそうな道ですよね。
それにしても昔の擁壁と万代塀は何だったんだろう?の疑問を解決したくなり、豊島区住宅地図の1975年版を調べてみました。地図には「第一勧業銀行雑司ヶ谷寮」とありました。
推察するに企業の土地がデベに売り払われてマンションが建つという良くある話のようです。
最初の写真の裏木戸のあたりをルーペで確認すると、確かに『第一勧業銀行/雑司ヶ谷寮/○○○』と三行のうち上二行は読めない事も無いですね。下に拡大してみました。
右側の建物は「南池袋ハイツ」というマンションでした。これを新築する時に、地盤を切り崩して低くし、敷地の一部を歩道として提供したのでしょう。緑も多いし歩いていて楽しくなりそうな道ですよね。
それにしても昔の擁壁と万代塀は何だったんだろう?の疑問を解決したくなり、豊島区住宅地図の1975年版を調べてみました。地図には「第一勧業銀行雑司ヶ谷寮」とありました。
推察するに企業の土地がデベに売り払われてマンションが建つという良くある話のようです。
最初の写真の裏木戸のあたりをルーペで確認すると、確かに『第一勧業銀行/雑司ヶ谷寮/○○○』と三行のうち上二行は読めない事も無いですね。下に拡大してみました。

それはともかく、このマンションの周囲を歩いてみると、ここが山の手台地の一部である豊島台から南の神田川方面へ下って行く高台にあり、日当りも眺めも良く素晴らしい土地であることが分かりました。
マンションは高台側では4階建てですが、台地の下から見ると7階建てです。
そうなると、第一勧銀が取得する更に昔は一体どうなっていたのか興味がわきますよね。それで今度は幕末の「江戸東京重ね地図」を見てみました。するとこの土地は「禁裏附 大久保大隅守 二千石」の屋敷でした。ちなみに禁裏附(キンリヅキ)とは江戸幕府の職名です。
何となくその頃の雰囲気が分かります。高台に屋敷を構えるお殿様が、敷地南の低地を流れる小川とその周辺の雑司ヶ谷村の景色を愛でるという感じでしょうか。実際、この敷地の南には弦巻川(今は弦巻通りとしてその形が残っています)が流れていました。
その雰囲気を味わうために、私も敷地北側の清立院の階段をのぼってみました。
そうなると、第一勧銀が取得する更に昔は一体どうなっていたのか興味がわきますよね。それで今度は幕末の「江戸東京重ね地図」を見てみました。するとこの土地は「禁裏附 大久保大隅守 二千石」の屋敷でした。ちなみに禁裏附(キンリヅキ)とは江戸幕府の職名です。
何となくその頃の雰囲気が分かります。高台に屋敷を構えるお殿様が、敷地南の低地を流れる小川とその周辺の雑司ヶ谷村の景色を愛でるという感じでしょうか。実際、この敷地の南には弦巻川(今は弦巻通りとしてその形が残っています)が流れていました。
その雰囲気を味わうために、私も敷地北側の清立院の階段をのぼってみました。
そこから南を見下ろしたのが次の写真です。何となくお殿様か殿上人になったような気がします。
私の中にこのマンションを買いたいという気持ちが沸々と湧いてきました。最上階の角部屋にでも暮らしたら本当に高貴な人間になれそうです。
早速、不動産情報を当たってみると、???です。南池袋ハイツという名称では全く取引が無いのです。賃貸に出ている様子もありません。
それで、更に調査です。結論としてはこういう事のようです。
南池袋荘という社宅を建てた第一勧銀が、銀行への公的資金の注入とか銀行の再編とかが行われる頃、この物件を不動産会社へ売却した上でそれを借り受けて社宅として使用し続けている。そういえば私がいた会社も自社ビルを売却してそこにテナント入居していました。
諦めるしかなさそうです。或は子供にみずほ銀行に就職してもらうか。それも幕末に禁裏附に任命されるのと同じくらいハードルは高そうです。
早速、不動産情報を当たってみると、???です。南池袋ハイツという名称では全く取引が無いのです。賃貸に出ている様子もありません。
それで、更に調査です。結論としてはこういう事のようです。
南池袋荘という社宅を建てた第一勧銀が、銀行への公的資金の注入とか銀行の再編とかが行われる頃、この物件を不動産会社へ売却した上でそれを借り受けて社宅として使用し続けている。そういえば私がいた会社も自社ビルを売却してそこにテナント入居していました。
諦めるしかなさそうです。或は子供にみずほ銀行に就職してもらうか。それも幕末に禁裏附に任命されるのと同じくらいハードルは高そうです。
(2013.12.27追記)
中村省三さんという桐朋学園の事務長を勤められた方がいます。
その中村さんが、少年時代を過した雑司ヶ谷の思い出を綴った「雑司ヶ谷界隈」(昭和52年、新小説社発行)の中で、この土地について
『清立院尼寺の東側をまた雑司ヶ谷墓地の裏側へ登る坂道があるが、この右手の崖は現在第一勧業銀行の雑司ヶ谷寮となり、お堂のようなものが望まれるが、昔はこの辺りうっそうとした森に包まれていて、長州の吉川家の別荘であったと思う』
と記されていることを発見しました。
明治期以降、ここは吉川(きっかわ)家という華族の屋敷でもあったようです。



























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