▪️次のボックスに適当な文字列(複数可)を入力して、当ブログ内を検索できます ▪️下の目次タイトルをクリックするとテーマ別過去記事の目次へ飛びます
    ・目白の風景 今昔:目次
    ・吉祥寺の風景 今昔:目次
    ・昔と今の写真(番外編):目次
    ・地中海バブル旅行etc.:目次
    ・旅のつれづれ:目次
    ・母のアルバム:目次
    ・目白ジオラマ鉄道模型:目次
    ・すべてのカメラに名前がある:目次

下落合のどら焼と踏切と2012年09月22日

1974年1月25日の夕方、目白から下落合エリアは強風に見舞われていました。
清水川橋公園から150mほど西に西武新宿線の踏切があり、そこで撮影された二枚続きの下の写真からその日の強風が確認できます。
昔の新宿線踏切1
三人の子供を連れたお母さんが踏切を渡ろうとしています。
1.線路の向こう側の壁に貼られた白いビラ(お母さんの右側)が風にはためいています。
 写真の一枚目と二枚目で形状が変わっています。
2.二番目の坊やが風に煽られて転びました。(でも一人でしっかり起き上がりました)
3.看板や交通標識が倒れています。そのうちの一つを、お兄ちゃんが直しました。感心。
昔の新宿線踏切2
お兄ちゃんが立て直してくれた「通行止」の標識って、でも「??」ですよね。これでは踏切を渡れないのでは、と思ってしまいます。
正解は、この標識は写真の左側、木杭と鉄線で囲われたエリア内が道路工事中で、そこを通行止めにするための物だ、と考えられます。

そう、この頃は新目白通りの拡幅工事が行われていました。当時、2車線(片側1車線)だった通りを4〜6車線に広げようとしていたのです。国交省の国土画像情報に丁度この年の航空写真がありました。該当部分を切り出してみます。水平方向に2車線の道路、その下に工事エリア、その下に西武新宿線の線路敷が写っています。
航空写真部分
下の現在の写真でセンターラインから右側の線路敷までの範囲が工事中でした。
新目白通り
随分と広がったものです。

さて、先ほどの踏切の現況を写してみました。
今の新宿線踏切
線路の向こう側、ブルーのネットで覆われ外装工事中のマンションは、かつて駐車場だった所に建った物です。その先の白いマンションは、「新日本機械工業KK」という企業の工場跡地に建設された「ハイシティ高田馬場」というマンションです。昔の写真で右半分を占めている角張った建物がその工場です。新日本機械工業KKは、昔の写真が撮影された2年後の1976年に下落合を去りました。
下の写真がハイシティ高田馬場です。道の突き当たりのネットの向こうは神田川です。
ハイシティ高田馬場

今度は「ハイシティ高田馬場」側から逆向きにこの道と踏切を見てみます。
踏切からおとめ山を望む
線路と新目白通りで分断されていますが、この道がずっとつながっていた事が分かります。正面の緑はおとめ山公園の森です。この道は、神田川とおとめ山とを結ぶ300mほどの長さの一本の道でした。

さて、工場の写真が残っていた「新日本機械工業KK」ってその後どうなったのでしょうか?
(ちなみに、この会社はお硬い感じの社名に似合わず自動どら焼機などの製菓機を製造していました) 神田精養軒さんのように、この地を離れその後会社自体も消滅した事例とかが頭に浮かび少し心配しましたが、逆でした。
何と社名を「株式会社マスダック(MASDAC Co.Ltd)」と変えて、ヨーロッパにも進出していました。しかも、欧州仕様の機械は高性能で、一時間に6,000個ものどら焼が製造できるそうです。
また、この会社の企業理念がふるっています。
 『ひとつのお菓子は、必ずひとつの笑顔を生む
 たくさんのお菓子は、もっともっと多くの笑顔を生む』
だそうです。
下落合で育った企業が世界に羽ばたき、そこで一時間に6,000個もの笑顔を生み出していると思うと、「日本のどら焼、世界を制す!」と金メダルをあげたくなります。