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・昔と今の写真(番外編):目次
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・旅のつれづれ:目次
・母のアルバム:目次
・目白ジオラマ鉄道模型:目次
・すべてのカメラに名前がある:目次
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河合編物からピーコックへ ― 2012年03月17日
かつてピーコックへ買物に行く時は、この道をよく通りました。40年経って改めて歩いてみると、変貌した風景の中に昔の景色の痕跡を見つける事が出来ます。というよりも、その痕跡を手がかりに昔の写真の撮影位置を確定する、いわば「ブラタモリ」的なゲームでした。
■後方に河合編物服飾学園の4階建ての建物が写っています。1973年の景色
■後方に河合編物服飾学園の4階建ての建物が写っています。1973年の景色
■下は2012年のもの。河合ニットデザイン専門学校となっています。建替えたように見えますが、バルコニーを付加して2・3階をマンションに改造したようです。左側の木造家屋が殆ど当時のまま残っていました。
■徳川黎明会から西へ2区画ほど歩いたところです。1973年の景色。
■下は2012年のものです。左側の大谷石の塀が残っていたので撮影場所が分かりました。概して大谷石等にて築造された塀は、そのまま残っている事が多いようです。
■目白通りの北側。1973年の景色。
ジャンプしている女性も今や三児の母&一児の祖母になっています。
■2012年のもの。左側、大谷石の塀がやや風化していますが昔と同じものであることが分かります。この塀が南へ向かって段数が減じている事で、この道が目白通りへ向かって上り勾配となっている事がわかります。残念ながら1973年と比べて樹木の減少が著しいです。
PEN E-P3をライカ風に ― 2012年03月17日
復活ELニッコール75mm ― 2012年03月20日
都電学習院下と千登世橋 ― 2012年03月21日
目白から池袋にかけて、明治通りも随分と様変わりです。
■1974年の都電学習院下駅
■1974年の都電学習院下駅
歩道橋前にある広告塔、「おもかげ寿司」と読めます。西早稲田にあったこのお店は2008年頃まではネット上に出現しますが、その住所に今あるのは「焼肉韓家」。
■現在の姿
■現在の姿
プラットホームが北側に50mほどずれて、今は緑地帯になっています。電車のデザインもモダンになりつつあります。
■学習院下から千登世橋方面を望む1974年の風景
■学習院下から千登世橋方面を望む1974年の風景
左上の大型マンション屋上には「目白武蔵野マンション水谷商事」の看板があります。水谷商事がデベロッパーとして建設販売したのですが、この会社は今どうなっているのでしょう?
■同じく現在の景観
■同じく現在の景観
上記マンションの南側、明治通り沿いには千登世橋教育文化センターや他のマンションが立ち並んでいます。千登世橋のアーチは不変。
鬼子母神1974年 ― 2012年03月22日
おりにふれ訪れた鬼子母神。40年経って変わったところと変わらないところ。
■1974年の参道。舗装材は何だったのかな? 左手前のマンホールに着目!
電柱の縦書き広告に「キンカ堂麦香村」とある。キンカ堂が2010年に倒産した時には、閉鎖された池袋店のシャッターに閉店を惜しむ人々のメッセージが多数貼付けられ、新聞などで大きく取り上げられたのが記憶に新しい。「麦香村」はそのキンカ堂が運営していたレストラン。
■2012年の参道の景色
右手前のケヤキの成長ぶりがすごい。両サイドの建物は全て表情を変えてしまった。撮影地点を特定する手がかりとしては、地面にある水道用マンホールくらいしかない。
■1974年の境内。遠方に見える手水鉢の屋根に着目
■1974年の境内。遠方に見える手水鉢の屋根に着目
■2012年の境内。画面中央の灯籠が昔はなかったもの
■1974年のお堂(拝殿)にて参拝する女性達
■2012年の佇まい。不易です
■1974年のお釜?。これの由来をご存知の方がいたら教えて欲しい
左の石碑により、鬼子母神が近くの法明寺(桜で有名)と一体である事が分かる。
■2012年のお釜。近づけないのが残念
■2012年のお釜。近づけないのが残念
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