▪️次のボックスに適当な文字列(複数可)を入力して、当ブログ内を検索できます ▪️下の目次タイトルをクリックするとテーマ別過去記事の目次へ飛びます
    ・目白の風景 今昔:目次
    ・吉祥寺の風景 今昔:目次
    ・昔と今の写真(番外編):目次
    ・地中海バブル旅行etc.:目次
    ・旅のつれづれ:目次
    ・母のアルバム:目次
    ・目白ジオラマ鉄道模型:目次
    ・すべてのカメラに名前がある:目次

上り屋敷の風景、今と昔(1)2012年05月18日

目白駅北西の住宅地を「上り屋敷(あがりやしき)」と呼びます。この言葉は江戸時代の狩り場の休憩所を意味する言葉で、この近くに幕府の狩猟地が広がっていた事に由来するそうです。その名前を冠した公園があります。豊島区立『上り屋敷公園』です。
目白の上り屋敷公園

園の中央にあるムクノキがとても大きいので、この公園は100年以上前から存在していたのだろう、と勘違いする人がいても不思議ではありません。しかし実際には、私が70年代に目白に暮らしていた頃は公園ではありませんでした。農林中金のテニスコートだったのです。
多分、農林中金と豊島区との間で何らかのやり取りがあり、その結果この敷地が豊島区のものになり公園計画に結びついたのでしょう。
テニスコート見下ろし

このテニスコートの南には、道路を隔てて木造のアパートがいくつか存在しました。そのうちの一つの共用廊下から1973年の8月に撮影したのが上の写真です。ちなみに撮影場所となった共用廊下はこんな感じです。
彩雲荘共用廊下

上り屋敷の地域には、当時はマンションと言えるものは少なく共同住宅の多くは木造のアパートでした。昔ながらのお屋敷とアパートが混在していた町だったのです。
この公園近くにも立派なお屋敷がありました。孫文の支援者として名高い宮崎滔天ゆかりの住宅があります。その住宅前から公園方面を撮影すると現在はこのような風景です。道路の突き当たりが公園です。
現在の宮崎邸と公園

同じ場所で1976年のお正月に撮影した写真があります。住宅の木塀は全く同じ風情ですが、道路の突き当たりが公園でなく、テニスコートのネットです。その奥に写っている建物は農林中金の寮です。
正月に宮崎邸前で

また、1974年の節分の頃に上り屋敷に雪が降りました。その時のこの場所を逆方向に撮影した写真がこれもたまたま残っていました。
昔、節分の頃の雪の屋敷
左側の住宅の塀も立派です。庭木も半端ではないですね。明治・大正の頃からこの地に暮らして来た方達が「上り屋敷」という言葉でイメージするものは、このような風景かも知れません。

続く

コメント

_ カリーノパパ ― 2012年05月18日 21:11

見慣れた街でも、今と昔を比べると、残っているものや、変化してしまったものがあり、とても興味深いです。
また、知らなかった歴史や名所を学ぶのも、大変勉強になります。

_ タフちゃん ― 2012年05月18日 21:39

40年前に撮影した写真を取り出して来て、それが何時・何処で撮影されたものかを探り当てる、というゲームのような事に最近はまってます。面白いだけでなく、その過程で色々学びます。

_ MOKKIN55 ― 2012年07月12日 13:55

私は下落合から西池袋に引っ越してきておよそ10年になります。貴ブログの写真で拝見した明日館に向かう道の左側、新築の家は、昨年まで「枇杷の実文庫」がありました。児童文学作家の坪田譲治宅でした。先生は私の小学校の大先輩。現在小生は上り屋敷町会の班長をしています。40年前の写真に大変興味があります。一度拝見できればとずうずうしいお願いのメールをお送りしました。(若原と申します)

_ タフちゃん ― 2012年07月14日 00:10

>MOKKIN55さま
お返事遅くなりました。このブログへご訪問下さり大変光栄です。
しかも、上り屋敷町会の班長さんとは!とても嬉しいです。
ご依頼の件、私の方は全く問題ありませんので、
どうするのが良いか考えましてメールさせていただきます。

_ Ken Kimpara ― 2014年12月12日 12:46

40年前 彩雲荘2Fの住人 雪の日の写真あります。

_ タフちゃん ― 2014年12月12日 15:00

>Ken Kimparaさん
驚きました!
まず間違いなく、私達は「彩雲荘」の御隣同士かと。
メアドの方にもメールしますので、そちらもご覧下さい。

_ ジェイさん」 ― 2021年02月13日 18:26

2012年の御ブログなのでこのコメントをご覧になっているのか不安ですが、ちょっとお尋ねいたします。上り坂公園の北側は現在は巨大なマンションが建っていますが、そこに狐塚があったと誰かのブログに書いてありました。昨年その辺を散策しましたが、今は上り坂公園の隅に小さなほこらが建っていてそこに移されたのかもしれません。お尋ねというのは、①大正10年頃にその狐塚近辺に「赤い鳥」画家の深澤省三夫妻が居住していたそうですが、場所をご存知でしょうか?②大正15年6月発行の住宅地図の一番南東の椎名町通り(現目白通り)に近いところに「赤い鳥社鈴木三重吉」とありますが、これは現在の目白の森公園のはす向かいにあると考えていいのでしょうか?よろしくお願いします。

_ タフちゃん ― 2021年02月14日 19:50

ジェイさん、今日は!
私は「赤い鳥」関連の知識を持ち合わせているわけではないのですがわかる範囲で。
①銀貨社の編集部員Sさんという方のブログにて「大正11年頃、目白駅前の川村学園の地に深沢省三氏の居宅があった」ことを知りました。
②鈴木三重吉氏は、目白のこのあたりで度々転居されていたようですが、大正11年から13年にかけて現目白庭園の南東に住んでいたようです。そこは、現在、ギャラリー「赤い鳥」となっており、「赤い鳥社・鈴木三重吉旧宅跡」の看板があります。
その看板によれば、この居宅の後、長崎村字荒井(現目白四丁目八番ついで五番)に移った、と書いてあります。ここがまさにお尋ねの、目白の森公園はす向かいですね。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
スパム対策の質問をやむを得ず設定しました。お手数ですが当ブログタイトル「○○の風景」の○○を漢字で。

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://mejiro.asablo.jp/blog/2012/05/18/6449000/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。