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21年ぶりに「唐人お吉」に再会2016年01月08日

昨年末に伊豆下田へ温泉旅行をしました。
下田は、思い返してみると21年ぶり。
1994年の夏、白浜海岸に海水浴に来て以来のことでした。

そして下田で、あの「唐人お吉」に再会しました。
再会した「唐人お吉」
場所は市内観光の途中で立ち寄った「宝福寺」です。
お吉記念館

先ほどの肖像写真は、多分デジタル処理をしてクッキリさせていますが、
「お吉」の写真の原版はこれです。
お吉の現在
だいぶ色あせていますね。
昔はどうだったかと言うと、21年前はこうでした。
昔のお吉写真
こちらの方が、僅かながら明瞭でしょうか。
やはり年月とともに原版写真は劣化しているようです。

貴重な写真が年月とともに色あせるのを恐れて、
人着(人工着色)に挑んだ方がいたようです。
今回見た展示物の中に、次のような写真がありました。
人着されたお吉
そういえば、私も人着を試みた事がありましたっけ。
(「美貌の叔母の『記憶』に着色」)
こういう美人の面影を前にすると、
何とか昔の姿を甦らせたいと思うのが男のならいなんですね。

さて、1994年の写真にこんなものがありました。
お吉の過去帳
写っているのは唐人お吉の法名を記した過去帳ですね。
過去帳の右側に解説文があり、
「...二頁の最初、貞歓信女がそれである...」と書かれています。
私が何故この写真を撮ったのか思い出せないのですが、多分
「ああ、この薄幸の美女は、作り話ではなく実在したんだ」
と自ら実感するために撮ったのだと思います。

そんな「お吉」の生涯を、
展示ケースの中の額絵の一部も交えて復習してみます。

下田の若く美しき芸子「お吉」には船大工の鶴松という恋人がいました。
二人が逢瀬を楽しんでいる様子が下の写真左側です。
お吉と鶴松との逢瀬
ところが、その美貌があだになり、
米総領事のハリスに見初められたお吉は、お奉行から
ハリスの洋妾(ラシャメン)となるよう説得されました(写真右)。

執拗な説得に遂に折れ、領事館へ奉公に行く事になります。
ハリスとお吉

しかし、僅か3ヶ月後にはお役御免となり、やむなくお吉は芸者に戻りました。
その後、鶴松とヨリを戻して所帯を持ち、髪結業を始めますが、
元ラシャメンへの偏見もあり店は行き詰まります。
また、周囲の冷たい眼差しに苦しみ、酒に逃避するようになり、
鶴松とも不仲になったあげくに分かれてしまいます。
そして、再度芸者に戻り、
置屋のお吉
自ら安直楼という置屋・料理屋を始めますが、
一度おちいった酒乱の生活から立ち直れず二年で廃業。
酒浸りの乞食となったお吉は、
身投げしたお吉
遂に稲生沢川に身を投じ数奇な生涯を終えました。

そして川べりに打ち捨てられたままの遺体を引き取ったのが、
この記念館のある下田宝福寺の住職だったそうです。
それで、「唐人お吉」のお墓が、宝福寺にあるのですね。

次の写真のお墓に葬られた(この時は合葬?)お吉は、
改葬前のお吉のお墓
1930年、新たに造られたお吉自身の墓(下の写真)に改葬されました。
改葬後のお墓
この新旧のお墓の写真は今回デジカメで撮ったものですが、
21年前の1994年にも、フィルムカメラで撮っていました。
次の写真です。
フィルムで撮ったお吉のお墓
写りは悪いけど、何かこっちの写真の方が雰囲気がありますね。
強い夏の日差しのせいかな?
或いは、お盆の直後(8月19日)に撮影した写真だから、
お吉の霊気がまだ周囲に停まっているためかも知れません。

(下田の話、続く

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