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雑司ヶ谷から護国寺へ2014年02月28日

昨年、女房が都電雑司ヶ谷の駅で、かなり年配の女性に護国寺への道を尋ねられ、
「都電と地下鉄を乗り継いで護国寺駅まで行くこと」を薦めたそうです。
でもその女性は、女房のお薦めには従わず、歩いて護国寺方面へ向かったそうです。
実際、地図で確認すると、都電雑司ヶ谷駅から護国寺の北西端ってかなり近いです。
現代の雑司が谷と護国寺

きっと彼女は昔この道を誰かに連れられて歩いた記憶があったけれども、
雑司ヶ谷駅周辺の景観の変貌ぶりに、一瞬戸惑っただけかも知れません。
今、駅の西側は計画道路の工事で、下の写真のような状態ですから、
民家の隙間を縫うように都電が走っていた時代を覚えている方は面食らうでしょう。
雑司ヶ谷駅と補助81号線

近いと言っても目白の住人にとって、護国寺って何となく遠い感じがするのは、
道路、特に首都高によると思います。
雑司が谷霊園と護国寺との間を走る首都高池袋線は、
下の写真のように街を分断しています。
首都高池袋線
高架下では繋がっていても、圧倒的な高さによる分断感はベルリンの壁のようです。

この辺りの地理を、少し勉強してみました。
昔の地図を調べてみると、この首都高のラインには、実はたいした道はなかったんですね。
1932年の雑司ヶ谷
これは1932年の地図です。これを見ると、
雑司ヶ谷墓地--陸軍埋葬地--護国寺と、むしろ墓地エリアとしての一体感を感じます。
しかし、この5年後の1937年の地図には、
護国寺から池袋までの幅広の道路と電車の路線が書かれ、
図形的には現代とほとんど同じになります。
そして、1969年には護国寺から池袋まで首都高が開通します。

先日、都電雑司ヶ谷駅から護国寺までの道を歩いてみました。
(何度も歩いた道ではありますが、年配の女性になったつもりで、昔を偲んで歩きました)
現代の地図に緑の点線で経路を示しました。

1.起点は都電雑司ヶ谷駅
雑司ヶ谷駅ホーム
2.踏切のすぐ東は霊園の入口です
霊園入口
3.霊園の北側の道を望む。右手の交番には人の良さそうなお巡りさん。
霊園の住人は事件を起こさないからでしょうか? 死ねば皆善人
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4.この道の由来を示す看板
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5.霊園を右手に見て進むのですが、
途中「荻野吟子」さんの像が見えます(写真中央に小さく写っています)
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6.霊園周辺には生花店が何軒かあります。さすがに青フラはなかったな
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7.水桶を持ったお参りの方に会います
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8.早くも御鷹方御組屋敷道の終点
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ここで広い道路に出てしまうと、
次の写真のように首都高を見上げながら歩くことになるので、
御鷹方御組屋敷道を少し引き返します
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9.そして霊園の中を横切ります
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途中で左折です
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10.雑司ヶ谷霊園の東端の出口が前方に
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11.出口から。次の写真の画面中央、首都高の下に扉が見えます。護国寺への連絡扉
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12.連絡扉から雑司ヶ谷霊園を見返す
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13.この首都高の下の道、昔は「小篠坂(こざささか)」と呼ばれていた
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「往時は笹が生い繁っていた」と言われても、その情景を思い浮かべるのは困難です。
高架道路を撤去して街区を再生する有名なプロジェクトがボストンであったそうですが、
この雑司ヶ谷と護国寺でも、首都高を撤去して「笹の生い茂る道」を再生したいですね。

続く