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鬼子母神の特定秘密「上川口屋」2014年01月01日

前回)からの続きです

鬼子母神境内にずーっと昔から駄菓子屋さんがあります。
鬼子母神の上川口屋
写真を拡大すると分かるように、創業1781年の「上川口屋」です。
店主も名物おばあさんのようで、今回図書館で見つけた鬼子母神関連図書に、
『鬼子母神の猫ばあば、上川口屋十三代目店主 内山雅代さんの暮らし』
という写真集があるくらいです。
写真集の撮影者はやはり雑司ヶ谷にお住まいの武田貞子さんです。
鬼子母神の風景を店主の日常として撮影したモノクロ写真集です。
良い写真は、瑞々しい感性と魅力的な題材が出会うところに生まれるのだな、
と思わせる作品集でした。

この駄菓子屋さん、下の写真のように鬼子母神の境内に見事に馴染んでいます。
駄菓子屋と鬼子母神境内
上川口屋の右後ろに見えている銅板葺きの屋根は武芳稲荷堂です。

ところが、不思議なことに鬼子母神の公式な?案内図(配置図)には、
上川口屋が載っていません。
私が最近読んだ図書などから、以下に、三つの事例を紹介します。
・鬼子母神HP案内図
鬼子母神案内図

・豊島区立郷土資料館編集「豊島の寺院」(1986年)
豊島の寺院、鬼子母神

・日本女子大他編集「江戸時代に生まれた庶民信仰の空間」(2010年)
音羽と雑司ヶ谷、鬼子母神

全然見当たらないでしょう?不思議です。
上川口屋は鬼子母神の「特定秘密」で、境内には存在しないことになっているのかも知れません。

さて、先ほどの写真集の題名からも分かるように、店主は大の猫好きだそうです。
そのせいか境内には猫の姿が多いです。
次の写真は上川口屋の屋根の上で日向ぼっこをしている猫です。
駄菓子屋さんが存在しないのであれば、この猫は空中に浮かんでいることになりますね。
空中の猫

境内には他の生き物もいます。これはやはり屋根の上の鳩です。
屋根の上の鳩

そして、何と猿もいるんです。
太郎次郎一門の猿まわし
もっともこれは今年の正月限定の出し物のようですね。
「太郎次郎一門の猿まわし」です。
有名な「日光猿軍団」が、原発事故の影響で昨年末に閉園したそうです。
こうのような芸達者なお猿さんに会う機会は貴重になるかも知れません。

横道から本題に戻ります。上川口屋はなぜ「存在しない」のか。
前回紹介した本、
三吉朋十著「雑司ヶ谷鬼子母神」に上川口屋に関する記述がありました。
ちょっと長くなりますが引用します。
「昔、雑司谷に川口屋丑之助という者あり、切り飴を売りはじめたところ良く売れて江戸時代の名物となった。続いて彼の孫の忠治の代となると、いよいよ盛んに売れて遠くは目黒辺に至るまで川口屋と言えば飴屋だ。飴屋と言えば川口屋であると言われる程に大したものであった。
境内に安井姉妹(十二代目店主とその姉:筆者注)はバラックを建てて商売をしてその日の生計を営んでいるが自ら進んでどこえも立ち退きはせず、境内の一部を塀で囲んで自分達の借地とし、東京都庁へ毎年若干の借地料を支払っている....」
これを読むと、上川口屋「非存在」の特定秘密の一端を垣間見た気になります。

境内には実はもう一つお店があります。
おせん団子の「大黒堂」です。
夕刻の大黒堂
こちらは鬼子母神の公式HPでも「おせん団子」の由来の説明に続いて、
次のように紹介されています。
「このたび、羽二重団子本舗澤野修一社長のご尽力によりおせん団子が復活しました。毎週日曜日と縁日(8日、18日、28日)鬼子母神境内の大黒堂でご用意しています。境内でお団子などいかがでしょうか。」
そして、上記境内の案内図(配置図)にも店舗が明示されています。

世の中にはカメラの眼では捉え切れない事情が沢山あるんですね。

続く

鬼子母神境内 この建物は?2014年01月04日

前回)からの続きです

昔の写真を改めて観察すると、
「あれ〜、こうだったかな?」と思う事がありますよね。
例えば次の写真です。
ツインテールの女の子

ツインテール(って言うのか?)のそっくりな女の子が二人写っているでしょう。
「あれ、はるみちゃんって双子だったかな?」と疑問になりますよね。
まあ、種を明かすと、これは単に合成写真だから不思議ではないです。
左半分と右半分の写真を張り合せたのです。
それではなく、今日の本題は、
手前のはるみちゃんの上に少し覗いている瓦屋根です。
万代塀に囲われた駄菓子屋と遠方のお堂の間に、
瓦屋根の建物があるように見えます。

境内入口からの写真も見てみます。
参道から見た鬼子母神
左側の仁王像の奥に駄菓子屋のトタン屋根、更にその奥に瓦屋根が見えています。

この駄菓子屋さんの裏手が現在どうなっているかを、
参道側から確認するとこうです。
上川口屋裏手の空き地
何の建物もありません。鬼子母神公式HPの配置図でも何もありません。

1975年当時は何が建っていたのだろう、と思い文献をあたると、
三吉朋十著「雑司ヶ谷鬼子母神」(1978年)の参考写真に
こんな瓦屋根の建物がありました。
昔の法不動堂
写真左の万代塀、建物手前の二本の石灯籠から判断して、
さっきの写真と同じ方角から撮ったものです。
そして、著者の手書きで「石灯篭、不動前」と書いてあります。
これは「法不動堂」の昔の姿かもしれない、と推察しました。

現在の法不動堂はこうです。
現在の法不動堂
屋根の材料と形状については、参考写真の建物が瓦葺きの寄せ棟であるのに対して、現在の法不動堂は銅板葺きの入母屋です。
でも、これは本堂の改修(瓦から銅板へ)に併せて行われた
と考えれば納得がいきます。
それに、
お堂前面に張られた「白地に紋入りの幔幕」が同じものと見受けられます。
(ちなみに、紋の形状は
 鬼子母神ゆかりのザクロを輪切りにしたように見えますね)

これらから私は、「法不動堂」が
境内中央部から南側の敷地境界近くへ移されたのだろうと考えました。
この推論を確実にするために、
現在の法不動堂が建っている場所の40年前の様子を確認しました。
そこが空地であれば、推論の正しさがほぼ証明されます。

上の写真で、
お堂の右横にカヤと「一字一石妙経塔」が写っています。
拡大するとこうです。
一字一石妙経塔
このセットに注目します。
昔の写真をつぶさに調べました。
昔の本堂前の風景
狛犬の左奥に「一字一石妙経塔」が辛うじて確認できます。
その左にカヤがあり、
更にその左の、現在のお堂の場所は空地だったことが分かります。
推論の正しさが証明されました。

この移築の目的は私には分かりません。
でも移築により境内の中央部は次の写真のように広がりました。
法不動堂の跡地

毎年ここに唐十郎さんの「紅テント」が張られます。
昨年も映画『彌勒 MIROKU』の生演奏版が上演されたそうです。
そんな縁で、唐十郎さんは、節分恒例の豆撒きにも必ず参加されます。
鬼子母神の節分豆撒きの唐十郎
これは一昨年の節分です。写真中央に写っていますね。
他にも著名人が沢山来ます。さすが天下の鬼子母神。

この日、お寺の「カメラ小僧」も、
「法不動堂」脇の銀杏の下でひたすら記録写真を撮っていました。
鬼子母神のカメラ小僧
Canonの一眼レフに高価なレンズ!
それに感心している右側の青年達も、立派なカメラを持っていますね。

皆たくさん写真を撮って、それを40年後にきっと懐かしく眺めることでしょう。

続く

鬼子母神 尻に敷かれた文化財2014年01月05日

前回)からの続きです。

鬼子母神のバラック1
昔の写真を見ると、境内にはバラックが建っていたり、
プロパンボンベやテレビが放置されていたり、まるで戦後の混乱期のようです。
上の写真の中央のバラックなどは、ちょっと用途不明です。
横から見ると、下の写真のように結構奥行きがあります。
バラック2
外壁は、ナマコ板か工事用のシートのような安物。
きっと物置として使われていたのではないでしょうか。
そんな建物でも、こうやってモノクロ写真に納まると、いい雰囲気です。
実は、この写真は私の好きな一枚なのです。
モヤっているのか遠方が霞み、日差しのない低コントラストの画面に味があります。

昭和50年代の大改修の時、本堂と渡り廊下でつながっていた部分(多分「庫裡」)
が拡張され、バラックの物置はクリアランスされたようです。
残念なような喜ばしいような気分です。

この改修の時に片付けられた物の一つに、石灯籠の台座があります。
下の写真で参道の両側に六角形の巨大な台座が写っています。
台座1
本体は多分、震災か戦渦により消失したのでしょうが、次の写真で分かるように、
本堂に近く、景観上も重要な立派な灯籠だったはずです。
台座2

台座側面に文字が刻んでありますね。
読み取れる部分はこんな風です。
『願主 大円日行』、また、
『明治四十二年十月再建 威光山四十六世 日龍代』

願主の「日行」なる人物は、
境内の複数の石造物に名前を残す18世紀頃の篤信者らしいです。
また、「日龍」とは、威光山法明寺の「四十六世一妙院日龍上人」のことでしょう。
法明寺の『由来と歴史』によれば、
この方は、関東大震災で倒壊した法明寺本堂を再興した山主でもあります。

そういう意味では、きっと大切な石灯籠であったはずですが、
本体を持たない悲しさ、この台座は今では境内の片隅に打捨てられています。
打捨てられた台座
上川口屋の万代塀の脇に四つ揃って放置されています。

と思ったら、これは放置されているのではなく、ベンチとして再利用されているようでした。
ベンチ代わり
女性に休憩場所を提供して、これなら、日龍上人も喜んで下さるかな?

元の場所には、新しい灯籠が奉納されていました。
昭和55年奉納だそうです。丁度、本堂の大改修が済んだ時です。
新灯籠と銅板葺きの屋根と、眩しい美しさだったでしょう。
新灯籠

数回に渡って鬼子母神の昔と今の違いを、主に建物の配置について確認してみました。
鬼子母神は人気スポットなので、世間に流通する情報の量はとても多いですが、境内の変遷と言うかこの種の情報は案外に得難いことを知りました。
せっかくなので備忘録代わりにブログに纏めた次第です。
私の頭の中は、かなりスッキリしました。
ついでに、昔と今の配置図を並べて対比できるようにしました。
勿論、駄菓子屋の「上川口屋」も記載しました。
鬼子母神境内の新旧比較配置図

(この項終り)

カラーフィルムの自家現像2014年01月08日

「ローライ デジベースC-41 現像キット Ready to Use」を使用して
カラーフィルムの自家現像を行ってみました。
モノクロは慣れていますが、カラーは初体験です。
カラーフィルムC-41現像キット
これは「Ready to Use」とあるように、
既に調合された三つの溶液を、そのまま使用するだけです。
C-41という標準的なカラー現像プロセスに基づいており、
殆どのカラーフィルムを処理できます。

同梱されていたマニュアルはこれ一枚。日本語なし。
現像マニュアル
ドイツ語分からない人のために英語も書いといたよ、ですね。
要所に赤字で和訳を入れ、更に青のマーキングをして、これを参照しながら作業しました。
 
溶液の入ったパックのままでは現像タンクへの出し入れが難しいので、
料理用の計量カップを3個購入し、
処理に必要な分量を一旦こちらへ移してから作業しました。
下の写真で左から現像液、漂白液、定着液です。
溶液各種

現像プロセスは液温管理が大切と言われています。
下の写真のように、Can・Doで買った100円の洗い桶に、
20°Cに調整された水を入れ、その中にタンクを浸けました。
水浴で温度調節

C-41プロセスの標準処理温度は100°F(37.8°C ± 0.3°C)、所要時間は3分15秒だそうですが、これを一般家庭で実現するのは困難でしょう。
マニュアルには低温でのレシピも記載されていたので、
普段使い慣れている20°Cのレシピで実施しました。

使用する水及び溶液は20°C(又は25°C)にあらかじめ調整した上で、
下記の処理工程を踏みました。

1.装填:現像タンクへフィルムを詰める
2.前浴:指定温度の水で2分。最初の15秒は連続反転、その後30秒毎に1回撹拌。
3.現像:21分(13分)。30秒毎に1回撹拌。→次工程前に水洗。
4.漂白:10分(6分)。30秒毎に1回撹拌。→次工程前に水洗。
5.定着:10分(7分)。30秒毎に1回撹拌。→次工程前に水洗2セット。
6.乾燥:水滴防止剤(アドフロー等)に浸けた後、埃のない場所にて吊り下げ乾燥1-2時間。
なお、水洗は「5回反転&水交換+10回反転&水交換+20回反転&水交換」
でやってみました。
この水洗の1セット目と2セット目の間に、単に水に浸けておくだけの時間を設け(1分程度)、その間にカップを洗うなどして作業スペースを片付けると作業が効率的に行えます。

このうち、厳密さが要求されるのは[3]の現像処理だけです。
他は若干アバウトでも良いようです。

処理後の溶液は一旦カップに戻します。
処理後の溶液
現像液の色が黄色から赤へ変わっているのが目立ちます。
これらの液は、それぞれ購入時のパックに戻して保存します。

この時、突然、昔の記憶がよみがえりました。
「そうだ!子供が保育園で色水あそびをしてたっけなあ」
色水あそび

最後は、下の写真のように、浴室に吊り下げて乾燥させます。
乾燥中

これまでカラー現像は、
「沢山の薬品を混ぜ合わせて溶液を作る手間と、処理中の液温管理の困難さ」
から自分には無理と決めてかかっていました。
ところが先日、”SILVER SALT”という会社が輸入しているこの商品を偶然見つけ、
トライする気になりました。
結果は次の通りです。

乾燥後のフィルム。良さそうです。
ネガシート

スキャン後の画像のうち、記念すべき一コマ目。
ファーストショット
画像が少し右に傾いていますね。
カラーバランスはOKなのに、体のバランスがNGのようです。
日付が20年前になっている理由は後日説明します。

「ローライ デジベースC-41 現像キット Ready to Use」は、
価格2,720円+宅配料金で入手できます。
処理能力はフィルム10本だそうですが、
そんなに纏めて現像することはありません。
保管しているうちに溶液の能力は劣化するので、
数本を処理するのが良いところでしょう。
だからラボに出すよりコストパフォーマンスは悪いかも知れません。
しかし、それを承知でやってみると、とても楽しい作業です。
デジカメのない20年前だったら、
人に見せられないフィルム(?)とかを現像するのに重宝したかも知れません。

よろしければ次の記事もご覧下さい。
カラーフィルムものぐさ自家現像

続く

死後も元気なミノルタα-7700i2014年01月09日

前回)からの続きです。

先日、生まれて初めてカラーフィルムの現像を体験しました。
そのフィルムの撮影に使ったカメラはこれです。
ミノルタα-7700i
昨年12月に買った「ミノルタ Minolta α-7700i」 です。
1988年に発売されたカメラです。
この機種は年代相応に傷んでいる物が多いのですが、これは奇麗な個体でした。
おまけに駆動用の新品の電池2CR5が付いて、1,000円でした。
この電池、amazonで調べてみたら880円、ということはカメラ本体は120円!

何故こんなカメラを買ったのかというと、懐かしかったからです。
かつてオートフォーカスの一眼レフとして愛用していました。
愛用というよりは、使い潰したという方が正しいかも知れません。
最後は、外装のプラスチックは欠け、グリップのゴムは白い粉を吹き、電池蓋が欠けて使用不能になりました。
そんな愛機の無惨な姿を見るに忍びず、廃棄してしまいました。

それにも関わらず、手元には二本のズームレンズを捨てずに残していました。
交換レンズ
母艦がなければ出番はないのに。

そして使用説明書と保証書まで残していました。まるで位牌です。
説明書と保証書

再入手したカメラを前にすると、「墓場で生まれ変わったのか!」と奇跡を見る気持ちです。
このカメラは標準で日付が写し込める機能が付いています。
当時「クォーツデート」とか言ってましたね。
早速日時設定を行おうとしたら、次の画面の日付でストップしてしまいました。
クォーツデート
何と、このカメラは2009年までのカレンダーしか搭載していなかったのです。
2010年以降も使用されることは想定されていなかったようです。
ちょっと可哀想、というよりも「そんな前提で良いのか!」と思いました。
2009年に寿命が尽きるのであれば、僅か21年の命です。

ともあれ、メインスイッチを入れると「ピピッ」と機敏にスタンバイ状態になりました。
日付設定はやむを得ず”1993.12.17”と20年前の設定にしました。
そして、出発。
当日のテーマは「合羽橋の年末の風景」です。
撮影済んだフィルムを(前回)の手順で自家現像をやってみたら、ちゃんと写っていました。
設定寿命を過ぎたカメラでも問題なく写ります。
ミノルタの技術者に見せてあげたいです。
でも、ミノルタでカメラを作っていた人達はソニーに吸収されたんですね。
そしてソニーでは今、リストラの嵐が吹きまくっているらしいです。
カメラも技術者も使い捨てなのか...

カラーフィルムの(続く
ミノルタα7700iの(続く