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大仙院の庭園の昔の姿2018年01月25日

前回)からの続きです。

今年の元旦に訪れた大徳寺の大仙院、
1993年にも日帰りで来ていました。
その時に撮影した数枚の写真が残っていました。
これは貴重です。
というのは、現在は大仙院は撮影禁止だからです。

その1993年の庭園の写真3枚を次に載せます。
1.蓬莱山(書院北東の庭)
大仙院の蓬莱山
2.大河に宝船(書院東の庭。正面の花頭窓のある壁は「廊橋」の壁です)
大河に宝船
3.大海(方丈前の庭)
大仙院の方丈庭園
これらの庭は建物の周囲に配置されており、一連の意味を持っています。
その意味とは「水」の一生を表しているとのことです。
一枚目の中央の石は蓬莱山の象徴であり、
その山の滝から水が流れ落ち、川となる様子をイメージさせます。
二枚目では、この川が大河に成長しています。
中央の石は、その形からも想像がつくように大河に浮かぶ宝船ですね。
そして最後に辿り着く三枚目の庭で、水は大海となり、
波静かで平穏な大海原が白砂で表現されています。
この「水」の一生は、もちろん「人間」の一生にも通じます。

と、ここまではパンフレットにもある通常の庭園解説なのですが、
改めて眺めると、
一枚目の蓬莱山の庭と二枚目の大河の庭は隣り合っているのに、
「廊橋」で分断され、繋がりが見えにくくなっています。
それで畏れ多くも、「廊橋」を消して、私が勝手に繋いで合成してみました。
廊橋を除いた大仙院庭園
蓬莱山の滝から宝船の浮かぶ大河までがひと繋がりになり、
この方が庭として自然な形に見えるような気がしますよね。
(作庭者である古岳宗亘(こがくそうこう)禅師に叱られるかな?)
実は、このアイデアの元ネタは、私でなく次の写真です。
05
(出典:日本の美術No.34庭園とその建物 森蘊 編 昭和44年至文堂発行)
私の合成写真と同じ景色でしょう?
そう、この形の庭だった時代があったのですね。
それを普通の位置から眺めると次のようでした。
06
(出典は上と同じ)
ちなみに現在の様子を、この写真と同じ方角から眺めるとこうです。
07
(大仙院パンフレットから)
中央の廊橋が、左右の庭を分断する衝立となっています。

更に勉強してみると、この中央にある「廊橋」については異論があったようです。
現在の公式見解は、次のようにこの「廊橋」を是とするものです。
『庭を廊橋などで区分して、山、川、海を表現するという枯山水の中でも独特の意匠をもつ大仙院の庭ですが、明治の末頃に「亭橋」とも呼ばれていたこの廊橋が撤去されたことがありました。そのため、山と川がつながった状態になり、これが大仙院の庭のあり方であると紹介された時もありましたが、昭和35年(1960)に廊橋が復元され、名園本来の姿が取り戻されました。』
(http://www.kyoto-ga.jp/greenery/kyononiwa/2010/05/post_2.html)
これに対して、前出の「庭園と建物」の著者は
『...昔からあったものかどうか判らない廊橋(江戸時代後期の指図によって復元)がそうでなくてもせまい石庭の真中に取りつけられてしまったので窮屈このうえなしである...』
と廊橋を復元したことに異を唱えています。
創建当時の様子が本当はどうだったのか(廊橋が在ったのか無かったのか)は、
結局、分からないのかも知れません。

と、このようなお勉強とお遊びができるのも、
昔の写真があればこそですから、カメラ好きとしては、
史跡や名勝も出来るだけ「撮影可」にしてほしいです。
外国の観光施設って「撮影禁止」は少ないですよね。
ちょっと脱線しました。

続く