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へそとザクロの鬼子母神2013年12月31日

前回)からの続きです。

本堂の屋根を昭和50年代に瓦から銅板に葺き替えた鬼子母神。
「確かにそれ以前の写真では、小さなお堂も瓦葺きだな」と思いつつ、
昔の写真をHPの境内案内図と対比させて見ていました。
すると、どうも辻褄の合わない部分がありました。
下の写真で右上に半分だけ写っている建物について、現在の状態が不明です。
鬼子母神の栂の木の下で
この建物の屋根は瓦でした。
これを銅板に葺き替えただけの建物が残っていると考えるのが普通だと思います。
しかし、この場所と外観に対応する建物が現在は無いような気がするのです。

もう一枚、若干ずれた位置から撮影した写真を調べてみました。
ツガと昔の市川商店
この写真では、左手前から右奥に三つの要素が並んでいます。
まず、カヤ(orイチイかツガか不明だったが2017/09/03確定)の古木、
次に問題の建物、
一番右にタイル貼りのビルです。
ビルには特徴的な横長の窓が二つ並んで付いており、
その下に「市川商店」と看板があります。

現在、境内の南西側の道路沿いにこのビルは残っています。名前は「金子商店」に変わっていますがビルの特徴から同一のビルであることが分かりました。
そして、これらを境内案内図に落とし込んでみたのが下の配置図です。右が北です。
樹種訂正配置図

念のため同一場所から同一方向の現況写真を撮ってみました。
ツガと現在の金子商店
これを昔の二枚目の写真と比べると、
カヤとビルは画面の同じ位置に納まっていますが、
やはり建物は無くなっています。
「法不動」が昔はここにあったのかなとも思いましたが、建物の雰囲気が違いすぎます。

鬼子母神のHPにも解説はないし、有効なネット情報も見つからないので、
ついに図書館で調査することにしました。
典型的な理系人間の私が、図書館で地域の歴史の勉強をするなんて空前絶後です。
豊島区中央図書館で雑司が谷関連の図書をいくつか調べました。

すると、参考になりそうな図書が二冊ばかり辛うじて見つかりました。
一冊目は、豊島区立郷土資料館編集「豊島の寺院」(1986年)
二冊目は、三吉朋十著「雑司ヶ谷鬼子母神」(1978年、二百部限定本)です。

「豊島の寺院」には鬼子母神境内の概略配置図が掲載されていて、
該当する場所に『納臍堂』なる建物が記されていました。
また、「雑司ヶ谷鬼子母神」では、これを『納臍殿(のうさいでん)』と呼び、
その由来を解説していました。
解説の概略は次のようなものです。

法明寺の本堂奥殿の天井画を描いた日本画家「尾形月山げっさん(1887-1967)」が、同じく日本画家であった父「尾形月耕」の追善のために、昭和3年『月光堂』の建設を発願し、昭和29年に落慶。
月山の没後、この月光堂が法明寺から「ゆーもあくらぶ」という団体に暫定的に無償貸与され、昭和39年『納臍殿』として開所式を開催。
これは月山氏の与り知らぬことでした。
納臍殿とは、ここに自分の分身である「臍の緒」を祭って信仰の対象とするための施設とされ、上記ゆーもあくらぶが一般の人々に対して、一人五百円で納臍を呼びかけた。
ゆうもあくらぶの解散とともに、
(鬼子母神信仰とは本来無関係な納臍活動は多分自然消滅し)、
月光堂(納臍殿)はその由来も殆ど人に知られずに放置されることとなった。

著者三吉朋十氏(1882-1982)は長年雑司が谷に暮らした学者であり、
自らの住居近くの鬼子母神には研究対象以上の愛着を持って調査されたようです。
この著作は本堂の大改修が進行中の、何と氏が96才の時の出版です。
著書の巻頭にこうあります。
「私はあと三ヶ年余で満百歳の長寿を迎えんとしつつあります。その老軀を鞭打って辛うじて略ぼ調査の目的の完成に近づきました」
その真摯な思いからも、月光堂を納臍殿として利用したことには批判的な立場で解説しています。月光堂として、その本来の形で存続することを願っていたようです。
でも、その月光堂自体も、上記「豊島の寺院」(1986年)の時点では存在していたわけですが、その後いつの間にか消滅してしまいました。

先ほどの写真で、かつて月光堂が建っていた場所を拡大してみました。
丁度お堂の四隅に当たるのではないかと思われる場所のうち三カ所に、
ザクロが植えられていました。
納臍殿が消えてザクロ三本
この三本は建物位置を記憶するために植えられたもののように感じます。
落葉し裸になった枝に、まだ多くの果実がぶら下がっていました。

ちなみに、ザクロと鬼子母神は深い繋がりがあるのですね。
多くの鬼子母神像が、左手で童子を抱き右手にザクロを持つのは、
ザクロの実には多数の種子があり、
安産と子育の神様にふさわしいシンボルだからです。
この境内にも大昔は多数のザクロが植えられていたそうです。
(遅ればせながら、花の季節のザクロの写真をこちらに載せました)

続く

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