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音羽陸軍埋葬地、英霊と桜2014年03月03日

前回)からの続きです。

1932年の地図を下に再掲します。
雑司谷墓地と護国寺の間に、「陸軍埋葬地」と記載された土地があります。
修正1932年地図
護国寺の境内の一部、約一万坪を削って陸軍埋葬地としたそうですが、
今はかなり縮小されています。

それでも柵に囲われ、ちょっと落ち着いた領域です。
古く立派な桜の木がたくさん植えられています。
埋葬地の風景
この写真を撮影した昨年の12月、「来年は桜を見に来よう」と心づもりしました。

この領域の中心施設が下の写真の「音羽陸軍埋葬地英霊之塔」です。
音羽陸軍埋葬地英霊之塔
明治以降の殉国の英霊を祭る施設として、1957年に護国寺が建立したものだそうです。
(この埋葬地、戦後は護国寺が管理していた)

簡単に言うと、陸軍の墓地をコンパクトに纏めたわけですね。
その敷地の余った分は、今は普通の墓地と小学校になっています。
下の写真が雑司ヶ谷霊園側の入口から撮影した物ですが、
墓地越しに見えている建物が「文京区立青柳小学校」です。(その右後ろは講談社ビル)
青柳小学校

この変化の経緯を調べてみました。(入手できる情報は少なかったです)

1947年 東京都青柳国民学校を青柳小学校へ校名変更
(この当時は、現在の首都高『護国寺出入口』あたりに校舎があった:最初の地図参照)
1957年 小学校用地として、旧陸軍墓地後を護国寺より買収
1957年 音羽陸軍埋葬地英霊之塔、建立
1960年 青柳小学校、現在地に移転
1969年 首都高、西神田出入口-『護国寺出入口』開通

何となく、高速道路→小学校→陸軍墓地という玉突きの構図が見えますね。
東京の道路等が拡充する過程で繰り返されたパターンです。

今年に入り、節分直前に護国寺へ立ち寄ってみました。
すると、旧陸軍埋葬地で何やら作業中の様子。
英霊之塔の手前の桜がこんな状態でした。
英霊之塔と桜
そして左手から見た様子もこうでした。
無惨な桜

多分、病気に冒された部分を大胆に切り落として、切り口に薬剤を塗布したのでしょう。
無惨な光景でした。
今年の桜はだめかな。
英霊に会いたいとは思いませんが、
桜の花に会えないのは、昨年心づもりしただけに、残念。

続く